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福博の歴史について

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福岡、博多の歴史についてこれまで調べたり、取材したことを中心に書いています。主に江戸時代中期から近代です。
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2020年3月の記事一覧

平野国臣の思想

わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島かな 平野国臣といえば、この歌と言われるほど有名な歌ですが、薩摩藩士を盛大にディスってる歌です。 この歌の経緯を書いていきます。 コレラから回復した平野は、白石正一郎に頼まれて焼き物屋の開店準備をしていたところ、水戸の浪士が井伊直弼の暗殺を企てているという情報を聞きつけます。 白石はその財力で尊皇志士達を援助していたので、そういった情報が集まってきていたのです。 これを知った平野国臣は、筑前へ戻ります。 井伊直弼

感染症と興行

およそ100年前、1918年から1920年にかけて、世界中でスペイン風邪と呼ばれるインフルエンザが猛威を振るいました。 世界中で2千万~4千万の人が亡くなったと言われています。 1918年の10月頃から日本でも流行が始まり12月には一端落ち着くもの、翌年の1919年10月から再び流行、1920年の1月に流行はピークに達し、日本全国で約40万人の死者を出しました。 当時、ウイルスというものは認知されていませんでした。(そもそも顕微鏡がなかった) それでも、人から人へ感染

「平野国臣を襲ったコレラの大流行」

安政5年から数年の間、日本ではコレラが大流行しました。筑前の志士、平野国臣も罹患して生死を彷徨うことになります。 安政5年11月に西郷隆盛の命を救った後、平野国臣は西郷の紹介で下関の豪商、白石正一郎のもとに身を寄せます。 下関は西日本の交通の要所でした。白石正一郎は長州藩の仕事を任されていた一方で、薩摩の御用商人も務めていました。 彼は後に高杉晋作の奇兵隊に弟と共に参加するなど、尊皇派志士を援助し続けた人物です。 平野国臣はここで番頭をするなどして過ごします。その中で

「西郷隆盛の命を救った平野国臣」

30歳の時、平野国臣は太宰府天満宮にて国事に奔走する決意を固めます。そのため妻のお菊と離縁し、小金丸から旧姓の平野に戻り、自ら国臣と名乗るようになります。 国臣とは「ただこの国の臣である」という意味でした。 この時期、ペリー来航から始まる外国に対しての幕府の弱腰に腹を立てた武士達は、徳川幕府に代わり力を持った藩で連合を作り、国難に当たるべきだという考えがありました。 外国への脅威や危機感を持っており、なおかつ軍事や経済で力を持っていたのは薩摩や長州といった西日本の藩でし

懐古厨?コスプレ好き? 平野国臣

幕末筑前の志士、平野国臣は武士の身分でしたが月代を剃らず総髪でした。また刀の代わりに太刀を佩いていて、烏帽子、直垂(平安貴族みたいなやつ)と言った服装を好んだと言われています。 これは、現在で言えば、地方公務員が羽織袴で髷を結って出勤するようなものです。 彼は古代日本の作法やしきたりの研究にあけくれ、自らそれを実践しようとしていました。 平安時代の風習であった犬追物(犬を使った狩り)を復活させようと、藩主に直訴まで行っています。 この時代、直訴は極刑のはずなのですがな

平野国臣、武芸と歌と楽器

幕末、筑前の志士であった平野国臣は「幕末の吟遊詩人」と呼ばれています。彼は武芸では杖術、鉄砲術に通じ、篠笛の名手で、和歌も巧みでした。 平野国臣は黒田藩の武術師範であった平野能栄の次男として生まれています。 父親は神道無想流杖術の武芸師範で、無想流から派生した付属武術である一角流捕手術、一達流柔術にも通じていました。 これらの武術は黒田藩の男業(だんぎょう)であり、下級武士達が学ぶ必修科目でした。門人も多かったようです。 そんな武芸者の父親のもとで育てられましが、国臣

幕末の吟遊詩人、平野国臣って何した人?

「憂国十年 東走西馳 成敗在天 魂魄帰地」 幕末の維新志士達を顕彰する霊山歴史館というのが京都にありますが、その入り口付近にでかでかと掲げてある漢詩です。(2020年現在は、わかりませんが) これは、筑前の尊皇志士、平野国臣(ひらのくにおみ)の辞世の句です。 訳すると 「この国の行末を憂いて10年の間、東へ西へと奔走した。その成否は天のみぞ知る。我が魂は故郷へ帰るだろう」 多くの維新志士と呼ばれる人達が辞世の句を残していますが、平野国臣は和歌も残しています。 辞世

偉人の子孫は優秀になるのだろうか?

webニュースを見てたら、厚生労働省のクラスターマップに大分県知事の広瀬勝貞が怒りの声って出ていた。 「あっ、そういえばこの知事って広瀬淡窓の弟の子孫だったなー。そういえば、なんとなく広瀬淡窓の肖像画にも似てるよね」 と思った。 広瀬淡窓の弟、広瀬久兵衛は病弱だった淡窓の代わりに実家の広瀬家を継いだ。 広瀬家は日田の大店で、大名との取引もあった掛屋だ。 日田の豆田町にいまでも広大な敷地が残っている。 日本にはわりと歴史上の人物の子孫が多い。 大名の子孫とか結構い

広瀬淡窓の莫逆の友

一人の偉人の周囲には、大なり小なり彼を支えた人や影響を与えた人がいます。 歴史に名が残る偉人も、支えてくれた人がいたからこそ、偉大な功績を成し遂げることができたのだと思います。 そういった名の残らない人の話をして、広瀬淡窓の回を終わりたいと思います。 淡窓は身体が弱く、若い頃に病を発してからは常に病と闘っていました。 それでも74歳という当時では充分すぎるほど長生きしています。 彼自身が身体に気をつかっていたということもありますが、生涯に渡り淡窓の主治医として付き従

シンガーソングライター広瀬淡窓

晩年の広瀬淡窓は「西海の詩聖」と呼ばれていました。 今でも詩吟という漢詩に節をつけて歌う芸能がありますが、広瀬淡窓は「詩吟の祖」と言われています。 詩吟は漢詩に節まわしをつけて詠んだのが始まりで、淡窓の師である亀井南冥も独自の節まわしで詠っていました。(現在でも亀井神道流という詩吟の流派があります) 江戸時代の著名な漢詩人である頼山陽や菅茶山もそれぞれの節まわしで漢詩を詠っていましたが、広瀬淡窓の節まわし(作曲)が塾生達によって全国に広められ、現在の詩吟のもととなったの

広瀬淡窓は若い頃、引きこもりのニートだった。

江戸時代後期、日本で最大の私塾であった「咸宜園」を経営し、日本の近代教育に大きな影響を与えた広瀬淡窓。彼は20代前半、引きこもりのニートでした。 咸宜園の咸宜とは「みな宜し」という意味で、そこでは個性重視の教育が行われていました。 咸宜園には九州だけでなく、全国から塾生がやってきました。学んだ生徒は四千人を超え、様々な才能が旅だっていきました。 教育者として、聖人君子のように扱われることもある広瀬淡窓ですが、彼の本当の魅力は以前も書きましたが、そのダメっぷりです

病弱な広瀬淡窓を癒したネコ、そして妹の存在。

江戸時代を代表する教育者である広瀬淡窓は、ネコ好きでした。 彼は多くの著作や日記を残していますが、日記にはネコの話題も出てきます。 日記に出て来るネコの名前は、麿墨、村雲、三星、白雪などです。 名前から察するに、麿墨は黒ネコ。三星は三毛、白雪は白ネコでしょう。村雲は難しいですが、サバトラだったのではないかと勝手に推測しています。 麿墨が亡くなった日のこと。子猫を拾ってきて、白雪と名づけたこと。白雪がどこかに出ていって、帰ってこないことなどが日記には記されています。