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「西郷隆盛の命を救った平野国臣」


30歳の時、平野国臣は太宰府天満宮にて国事に奔走する決意を固めます。そのため妻のお菊と離縁し、小金丸から旧姓の平野に戻り、自ら国臣と名乗るようになります。

国臣とは「ただこの国の臣である」という意味でした。

この時期、ペリー来航から始まる外国に対しての幕府の弱腰に腹を立てた武士達は、徳川幕府に代わり力を持った藩で連合を作り、国難に当たるべきだという考えがありました。

外国への脅威や危機感を持っており、なおかつ軍事や経済で力を持っていたのは薩摩や長州といった西日本の藩でした。(これには地理的要因もあります)

特に薩摩は、琉球を介した海外貿易や奄美諸島でとれる砂糖の専売で国力を増していました。

さらに薩摩藩の特殊さは人口の4割が武士という身分構成です。

武士=軍人と考えたらその戦闘力は桁違いでした。薩摩藩には明治3年の時点で約40万人の士卒がいたそうです。(wiki参照)その半分が現役のだとしても20万人です。

日本で最大の戦と言われる関ケ原の戦いが西軍8万、東7~10万だったとすると、この数字の異常さがわかると思います。

(しかも薩摩には、示現流というステータス攻撃力全振りで、二の太刀要らずと呼ばれた、初太刀に全力を込める先手必勝の剣術がありました)

この身分構成のいびつさは、後に西南戦争の要因の一つになるのですが、それは後日。

奇兵隊という民兵を組織した長州との違いも興味深いものです。

(明治維新後、長州は陸軍を薩摩は海軍を掌握します。陸軍は徴兵制で、海軍は志願制だったのも、こうした文化の違いかもしれません)

さて、その経済力と軍事力をバックに藩主であった島津斉彬は、朝廷に政治工作を行います。

そして自身に「勅諚(天皇からの直接命令)」が降りるように仕向けます。

天皇の後ろ盾を得て、徳川幕府の改革を行おうとしていたのです。

島津斉彬の配下であり、筑前の大島に隠匿していた北条右門もその工作の為、江戸に登ります。平野国臣は彼の後を追って脱藩、江戸を目指します。
 
ところが、このタイミングで島津斉彬が病死します。(時期が時期だけに暗殺という説もある)

そして幕府老中、井伊直弼による尊皇派の弾圧、いわゆる安政の大獄が始まります。

京都で尊皇派の武士と公家の間を取り持ち、島津斉彬の政治工作を手伝っていた、京都清水寺の住職、月照も追われる身となります。

薩摩の西郷隆盛は懇意にしていた月照を薩摩へ逃がそうとします。

その手伝いをしたのが、北条右門に紹介された平野国臣でした。

平野国臣は月照を伴い、薩摩への逃避行を始めます。

問題は関所をどう抜けるかでした。

平野国臣は安宅関の武蔵坊弁慶にならって、山伏の姿に変装(コスプレ)します。しかし、薩摩入りは1度失敗します。

薩摩藩というのは、江戸時代には国内鎖国のような状態で、余所者が簡単には入れない土地でした。

陸路での薩摩入りが失敗に終わった平野国臣と月照は、海路で薩摩入りを目論みます。

それは、八代から船で海へ出て黒之瀬戸を渡ろうというものでした。

黒之瀬戸は日本三大急潮に数えられる、潮の流れが大変早い難所です。そんな場所だからこそ普通の船乗りは近づかないと思ったのです。

ようやく薩摩へ月照を連れてこれたのですが、そこで待っていたのは非情な言葉でした。

薩摩藩は幕府からのお尋ね者になっていた月照を薩摩へ留めるわけにはいかぬと、西郷隆盛に月照と共に日向へ行けと言われます。これは、暗に月照を切れという命令でした。

人目につかぬよう、日が暮れてから錦江湾を船で日向へ向かいます。その月明りの中で月照は歌を詠みました。

曇りなき 心の月の 薩摩潟 沖の波間に やがて入りぬる

月照の覚悟を知った西郷隆盛は、共に入水することを決意します。

二人は船から身を投げました。水音に気づいた平野国臣は、すぐに後を追って飛び込みます。

夜の海の中、何とか西郷を助けることには成功しますが、月照を助けることはできませんでした。

西郷隆盛はこの後、幕府へは死んだと報告され、名前を変えて奄美大島に流罪されます。(西郷の奄美時代に関しては大河ドラマでも描かれています)

この時の月照の辞世の句が

大君の 為にはなにか 惜しからむ さつまの追門に 身は沈むとも

こうして平野国臣は、西郷隆盛の命の恩人となるのです。


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