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平野国臣、武芸と歌と楽器

幕末、筑前の志士であった平野国臣は「幕末の吟遊詩人」と呼ばれています。彼は武芸では杖術、鉄砲術に通じ、篠笛の名手で、和歌も巧みでした。

平野国臣は黒田藩の武術師範であった平野能栄の次男として生まれています。

父親は神道無想流杖術の武芸師範で、無想流から派生した付属武術である一角流捕手術、一達流柔術にも通じていました。

これらの武術は黒田藩の男業(だんぎょう)であり、下級武士達が学ぶ必修科目でした。門人も多かったようです。

そんな武芸者の父親のもとで育てられましが、国臣は5歳にして百人一首のほとんどを覚えてしまうなど、小さい頃から歌が好きだったようです。

11歳で鉄砲大頭、大音権左衛門の家へ奉公すると、14歳でその部下である鉄砲頭小金丸彦六の養子となります。その後三女のお菊と結婚して小金丸家を継いでいます。

父親が武芸全般、養子先は鉄砲頭です。そのまま行けば、黒田藩の鉄砲頭となっていたことでしょう。

さて、平野国臣も得意とした神道無想流杖術ですが、これは宮本武蔵に敗けた無想権之助が、太宰府の宝満山に籠って修行して開眼した武術です。

その後、宮本武蔵に再戦を申し込み引き分けた権之助は、武蔵の斡旋で黒田藩に仕えたとも言われています。

この杖術は後に警察に採用され、現在の警棒術の基となっています。

神道無双流の伝書には

「突けば槍、払えば薙刀、持たば太刀、杖はかくにも 外れざりけり」とあります。

平野国臣は杖術に関しても歌を詠んでいます。

「疵つけず 人をこらして 戒しむる おしえは杖の 外にやはある」

訳すると

「傷つけずに人をこらしめて、改心させる教えなど、杖術の外にあるだろうか?(いや、ないな)」

幕末の志士達といえば「悪いやつは斬れ」みたいな過激な人が多いのですが、平野国臣に関しては、人を殺めたという記録は残っていません。


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