信じるということ 27/100

芦田愛菜ちゃんが映画の舞台挨拶で話していたことが素晴らしすぎてシェア🥺🥺🥺


『その人のことを信じようと思います』っていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、『それがどういう意味なんだろう』って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と感じて」
「だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは、『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思ったんですけど」
「でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は『信じる』って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました」


ですって🥺🥺🥺

私は過去に信頼を失ってしまったことがあって、信用を失うのは一瞬だということを強く体感した。

それを許してあげるか、相手はかなり悩んだし葛藤したと思う。

それについて、相手に対して申し訳ない気持ちはある。自分の行ないを悔やんだ。自分を正当化するつもりもない。自分の過去を消してしまいたい、忘れてしまいたいわけでもない。けれど、思うことがある。

今思うのは、なにかトラブルがあった時にその人を『許す』という表現より、そういうところもある人間だという目の前の事実を『認める』ということ。

その事実を深読みしたり、自分にも非があったのではと思ったりする必要もなくて。

ただ、そういう面もある人間だったんだと認める。

それからそういう面を持った人間でもいいと受け止めるのか、もう無理だなと流すのか決めたらいい。

許してしまったら、全てを忘れて、流して、なかったことにしてまた0から始めなければいけない。

そんな自分に嘘をついたり、自分の気持ちを隠したりして生きていくことはすごく辛いと思う。無理に許さなくていい。

許せないことは、心が狭いわけでも、自分を信じられていないわけでもない。

ただ自分の理想とかけ離れてしまった相手の姿が受け入れ難ければ、自分のために近くにいるのをやめればいい。

今はそう思う。

パートナーや子どもに対して理想を抱いたり、求めてしまったりしてしまいがちだけど、どんな時も相手を受け入れられる器の大きさや優しさって、結局どれだけ自分自身と向き合って、数々の選択をしていく自分を、信頼してあげられるかどうかだよね。

認められて、信じてもらえる人になるより、どんな人のことも認め、信じられる人でいたいなと思う。

精進します!

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