見出し画像

5年前、女子高生だったわたしが田舎の駅のホームで出会った”ひげ男”のはなし。後編

こんにちは、飯田華菜です。
5年前、女子高生だったわたしが田舎の駅のホームで出会った”ひげ男”のはなし、後編です。

前編がまだの方はこちらから、読んでみてください。



「ハッシャダイオンラインスクール」という名で不定期で始まったオンラインのプログラム。

参加者の高校生は両手で収まる程度。
そして、2、3人のちょっと上の年代のお兄さんお姉さん。

そこにイケてる大人1人が入り、いろいろな話をしてくれる、”大人インタビュー”が大半でした。

そもそもオンラインとは?zoomってなに?
イケてる大人ってどういうこと?

え、質疑応答とかある感じ?なにを聞いたらいいんだ。好きな食べ物とか?いや、いかんよな。もっと、他の参加者みたいに、頭のいい感じで聞かなきゃ。と頭を悩ませていた初回ですが、なんとか終了。

純粋におもしろかったし、なにより参加者やお兄さんお姉さんと仲良くなっていくのが嬉しいし!という思いから、参加を継続。

zoomの操作も慣れてきた頃、
「BOOT CAMPという3ヶ月のみっちりプログラムをやります!」
と、いきなり発表が。

オンラインスクールも楽しかったし、ここで出会った友達も参加するし、
なんせ楽しそうだし!まあ、やってみっか!

そんな理由で、参加を決意。
今思えば、このBOOT CAMP(第2期以降、BASE CAMPへ名称変更)はわたしのターニングポイントのひとつだと思います。

BOOT CAMPの記事はこちら↓



このBOOT CAMPは、これまでのオンラインスクールとは同じようで、違いました。
簡単に言えば、強化版のようなもの。

自分の価値観について考えてみたり、自分を色で表してみたり、
将来の目標、夢について話し合ってみたり。

友達は必死にワークの答えを考える中、そもそも『価値観』という言葉に出会ったことがなかったわたしは、
「価値観ってなんですか?」
とお兄さんに質問するところからスタートしました。

そんなワークを仲間たちと大人たちと3ヶ月間みっちり行いました。
学校の授業とは違う。学んでいる、というより、知っていく感覚。

未知の自分と出会う感覚が、新鮮で、なんだか嬉しかった記憶があります。
そして、このBOOT CAMPを通して、素直に思ったこと。

「こんな大人って、いるんだ。」

いままでは、両親、学校の先生、習い事で関わる大人が大半だったわたしの”大人”という概念が、柔らかくなった気がしました。

何気ない学校生活の愚痴をいったり、ちょっとずつ悩みを話してみたりするうちに、気づいたら大人のことを、人のことを、少しずつ信じられるようになっていました。

またBOOT CAMPでは、” 挑戦するおもしろさ ” にも気づかせてもらいました。

イケてる大人のライフチャートを見せてもらいながら過去のはなしを話してもらったり、併走してくれているお兄さんお姉さんのはなしを聞いたりしていくうちに、「挑戦、してみよっかな!」と思い、実際にいろいろと挑戦してみたのです。

例えば、地元のライブハウスでアーティストとしてステージに立ってみたり、学校創設以来異例の『女群団長』に立候補し体育祭で学校のトップを率いてみたり。

なにより、” 悩みを話す ” ことができなかったわたしにとって、” 悩みを話したこと ” が1番の挑戦だったのかもしれません。

BOOT CAMPを通して、ちょっと変わることができた自分に出会えたことが、とっても嬉しかった。
それから「ちょっとずつ、変わってみよう。」と、自分の行動に、選択していく意識を持ち始めました。


なりたい理想と、在りたい現実


高校を無事卒業し、俳優になるための専門学校へ。
本当は、高校卒業後に上京することを願ったが、母に「いま行って何するの?属する場所はあるの?お金はどうするの?」と言われ、断念。

ならばせめて、「4年大学は長すぎるから、2年で卒業して上京してやる」。と、インターネットで『演劇 短期大学 専門学校』と検索し、オープンキャンパスに参加した。

オープンキャンパスでは、かわいいお姉さんに「なにか質問はある?不安なこととか。」と言われたため、「この学校に入って後悔したことはありますか?」と、強気で質問。

「ない!」という返答に若干の不信感は抱きつつも、
「結局は自分次第でしょ。人、場所なんか関係ない。」という母のアドバイスにより、入学を決意した。

専門学校では、いろいろなことがあった。

まず、夏休みというものはあるが、わたしたち俳優コースには、ない。
5月後半から、1~4限は授業、5,6限は夏の舞台に向けての稽古。
7月から夏休みがスタートすると同時に、集中稽古にシフトチェンジ。
1~6限(9:00集合、20:00終了)まで、狭いスタジオに20~30人が入り、毎日稽古に励んだ。

中には「自分は俳優に向いてないんだ。」と思い込み、辞めていく人もいた。
もちろんわたしも、1度も考えなかったのか、と言われると、そうではない。
しかし、わたしには、最高の友達がいた。

地元の友達は、定期的に、深夜ラーメンに連れて行ってくれた。お互いに愚痴を言い合い、ガハハと爆笑し、近所の海に行って、星を見て、解散。最高のリフレッシュだった。

また、専門学校の友達も最高だった。
子供の頃から演劇をしてきた1人は、いつでも前向き。三重県出身で、ゴリゴリの三重弁。私たちの間では、通称、猿。
「おい華菜!いくぞ!」と常に猿が引っ張ってくれた。

もう1人も三重県出身なんだけど、その子はザ・ヒロインって感じ。べっぴんさんなのよ。
猿とは真逆の性格で、人を引っ張っていく、というよりは、隣を歩いてくれる感じ。

常に優しいのだけど、優柔不断なところが多く、ご飯屋さんはいつもわたしが決めていた。
でもとっても努力家で、わたしはその子の頑張りについていくのに必死だった。

わたしが、学校で1番に仲の良かった子に、とんでもない裏切りを受けたときに救ってくれたのも、この2人だった。
地元の友達、そしてこの2人のおかげで、2年間の学校を、いや、俳優という夢を、いまも追えているのかもしれない。

また、専門学校で演劇を学んでいる一方で、アーティスト活動も続けていた。

いつしか自分で作詞作曲をするようになった、俗にいうシンガーソングライターというやつ。
ライブは1ヶ月に1本程度の活動だったが、とても思いを込めてやっていた。

前のライブより良いものを届けよう。いい曲を書こう。
こんな歌詞なら、みんなに、あの人に喜んでもらえるかな。

そう思いながら続けた。

2023年11月、12月と、1本ずつライブが決まっていた。

1本目は、サーキットイベントだった。会場に行くと、女の子ばかりのアーティスト。
4会場の周りに溜まるお客さん。そのお客さんが、嫌だった。本当に歌を聞きにきたの?という感じ。

わかるんだよな、わかってしまうんだよ、そういうの。
そのイベントはスタッフの方も、SNSの宣伝含め、お金しかみていないように感じてしまった。
初めてのサーキットイベントで期待しちゃった分、ショックだった。


もう1本は、ライブハウスではない、小さなライブBarのようなところ。
そこのスタッフさんは、対応がとても雑だった。

リハーサルの時点で、なんか嫌な気持ちはしていた。
ライブ中に携帯を触り出した時は、さすがに驚いた。遠目で見る感じ、横画面にし、ゲームをしているようだった。

わたしのことを、バカにされたように感じてしまった。

そんなライブを立て続けに行うと同時に、うまく曲が作れなくなったり、うまくギターが弾けなかったり。
誰のために、なんのために歌ったらいいのかわからなくなり、歌う意味を探した。

ライブで出会ったお客さんからのアドバイスとか、いま流行りの歌とか、聞きたくなかった。

そうこうしていくうちに、だんだんと音楽が、嫌いになっていった。

夢を嫌いになったら終わりだと考えていたわたしは、周りに
「歌うこと、今決まっているライブで最後にしようと思う」と告げた。
みんなが「そっか」という中、三重弁の猿は違った。

「絶対うたっとった方がええで。華菜の歌好きやし。歌ってほしい。」

どストレートな言葉が、わたしの頭の中に、心に残った。
ずっと、この言葉が離れなかった。

「 猿が言ってくれたから。」
言い訳のように、わたしは歌を続けることを、決意した。


またもうひとつ、ライブが楽しくなるきっかけがあった。
先輩のアーティスト、山田尚史(やまだたかふみ)さんという方に、悩みを相談したときがあった。

わたしが1番尊敬させていただいている方で、山田さんのライブには、人柄には、いままでで1番圧倒されたのだ。

その日は同じライブに出る日だった。
わたしの出番の15分前、これを言わなきゃ、ダメだ。と思い、意を決して話しかけた。

「あの山田さん、わたし、最近、ライブが楽しくないんです。」
いつもとは反対に、真剣な顔でそう話すと、山田さんは優しく笑った。

山田さん:私もあったなー、そういうとき。華菜ちゃんはさ、何を思いながら、ライブをしているの?

わたし:歌詞間違えないようにしようとか、前回のああいうとこはもっとこうしよう、とか。
逆に山田さんは、何を考えてるんですか?

山田さん:何も考えてないなあ。

思っていた言葉とは遥かに遠く、驚いた。山田さんは続けて言った。

山田さん:私、ライブはさ、対話だと思っているの。お客様と対話するの。ねえ、私はこう思うけど、あなたはどう思う?って。歌は手段にすぎないの。

わたしは、何か大切なものを忘れていたような気がした。

そうか、表現者なんだから。

対話か。なるほど。
とても腑に落ちた気がして、すっきりした表情のわたしに、
「今日のライブ、楽しみにしているね。」と、優しく微笑んでくれた。


「別れは人を、つよくする。」


生まれも育ちも変わらず、20年間愛知県豊川市という田舎町で育ったわたしが上京するのには、理由がありました。

1つめは、つよくなりたかったから。

昔から、別れが寂しくて悲しくて、気づいたら”別れ”というものが大嫌いになっていました。
ひとつの舞台で仲良くなった人との別れ、愛する祖父との別れ、お世話になった先生方との別れ、友達との別れ。

そんな連続でやってくる” 別れ ”が、とにかく嫌い。
来ないでと願っても、きてしまうのが憎くてたまらなかった。

ある日、もうちょっとで訪れる” 別れ ”を嫌々と待っているわたしに、ひとりの人がこの言葉を贈ってくれました。

華菜ちゃん、別れってね、人を、つよくしてくれるのよ。

この言葉を聞いた瞬間、” 別れ ” というものを自分なりに踏ん張れるような気がしました。

その大嫌いだった ” 別れ ” で自分をつよくしたい。

”上京 ” というものは、さまざまな ” 別れ ” が付き物です。
そんな ” 上京 ” の力を借りたかった。
これが1つめの理由です。

2つめは、夢があるから。
わたしには、俳優になるという夢があります。

俳優という夢ができたのは中学3年の頃。
「将来の夢は?」
担任の先生にそう聞かれて、ぱっと出てきたのは、「美容師」という夢。

この夢は小学生の頃から抱いていて、中学2年生で行われた職場体験も、当たり前のように行きつけの美容院にお世話になるぐらいに本気だった。

美容師という夢を叶えるための道筋を考えてみた。
高校に行って専門学校に行って資格をとって就職して。

と、叶えるための道筋が見えてしまったときに、つまらなく感じてしまった。
誰でもできるじゃん、と。

なんか、もっと、誰にも代えがきかない、誰も予想できないものを目指したい。
その時に習い事でやっていたのが劇団、つまり演劇でした。


「よし、俳優、やってやろ。」

そのときに、俳優になることを決めました。


何度も揺らぐ、夢


中学校3年生で「俳優になりたい」と言い出したわたしですが、ずっと燃えた思いを抱けるわけでもなく、何度も、何度も揺らぎました。

今までは何でも応援してくれてた母に、「本当になるの?」と止められたり、面談で毎回濁る担任の先生の表情を見たり、俳優志望の方のYahoo!知恵袋でのQ&Aを見たりと、揺らぐシーンは度々訪れました。

それでもやりたいと思った「演劇」に対する思い、あとは、極度の負けず嫌いだったのもあると思います。

なんでやったこともない人に無理なんてわかるんだよ。未来人かよ。
と、なんとか、「俳優」という夢を守ってきました。

ある日、「今度、華菜の母校に講演に行くから、ついて来いよ!ついでにちょっと話してや!」と三浦宗一郎から、連絡がきました。

それは行くしかないと、専門学校の先生になんとか許可をとり、行けることに。

「駅まで迎えに行きます!!」と、免許取り立てでうきうきしながらお迎えにあがりました。
もう1人の友人と行き、無事講演も終了。ちょっと尺をオーバーしてしまいましたが、なんとかかませました。

その日の帰り、駅に向かう途中の助手席で、三浦さんが言ってくれました。

「おれさ、華菜は、特別な人だと思うんだよな。」

突然の言葉に、「ええー!」と照れ隠しをしながら笑いました。
でも、嬉しかった。素直に嬉しかったんです。

心からわたしのことを、わたしの可能性を信じてくれている人がいた。
それも、わたしの人生に大きな影響を与えてくれた、三浦宗一郎さんからの言葉。

あの三浦さんだから応援してくれているなんてわかっていたけど、改めて言葉に出してくれたことが、とてつもなく嬉しい。
そう感じるとともに、

「やってやろう。」

と、自分の胸が震えたのが分かりました。


偶然と奇跡


いまこうして思い返してみると、これまでにはたくさんの「偶然」が重なってきた。

飯田家次女としてこの世に生まれたこと。
合唱コンクールで賞を連続で受賞したこと。
第一志望の高校に合格したこと。
そして、駅のホームでひげ男に出逢ったこと。

これらはただの偶然でしかないが、確実に必然であり、奇跡だともいえるだろう。

” 何気ない出会いには、人生が広がる可能性を秘めている ” ということを、わたしは人生をかけて感じています。
そんなあたりまえで嘘のようなことを、わたしはこれからも、信じていたい。

わたしの座右の銘でもある「なんとかなる」という言葉のように、不確実性に身を委ねること。
そのときはちょっぴりの恐怖と闘いながら願ってみるのも、悪くないのではないでしょうか。

人生は運ゲー。悔しいことに、これは間違いないと思う。

ただ、その”運”をどう味方につけるか。
それはあなた次第で、あなたにしか分からないことなのではないでしょうか。

寿司屋とかコンビニとか、東京の街にはわたしの経験したことのある働く手はいくらでもあった。
でも、それでもHASSYADAIsocialを選んだ理由。
それは、HASSYADAIsocialが大好きだから。そこで働くみんなが大好きだから。
「その愛を伝えるのはわたししかいないだろ!」と思ったから。

これでしかない。


広報として関わることになったいま、わたしがやりたいことは、
あの日、田舎の駅のホームに座っていたわたしのように、何かが不安で、何かを抱えている人へ、

「人生って、こんなに楽しいんだぜ!」
「世の中には、こんな生き方があるんだぜ!こんなかっこいい大人がいるんだぜ!」と、届けていきたいです。

きっとその先には、明るい未来がうっすらでも、見えるはず。
そんな期待に、もう既にとてつもない高揚感を抱いています。

あのときのわたしがこの文章を読んだら、何を感じるのだろう。

そんなこと、誰にもわかりっこないことなんて、ハタチになったわたしにはわかるのですが、一方で、『エールになってくれるだろう!』とも思ってしまうのです。

あのときはちょびっと苦しんでいたけど、ハタチのわたしは、こんくらいだけど、つよくなれたぜ!ってね。

これから先も、あなたはあなたらしく、無邪気に進んでみてほしい。
きっと、なんとかなる。

綺麗にやろうとしなくていい。泥臭くていい。泥まみれになっちまえ。

いつまでも「いいヤツ」でいようとするな。
自分と戦え。


わたしはあなたの、
わたしはわたしの、

そんな未来を期待したい。


この記事が参加している募集

#入社エントリ

2,978件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?