「名物・丈木」(四) 刃切の刀で斬ってみた(人がいた)。
前回はこちら。刃切の刀を使ってみたら。
——名物丈木の刀で不思議なのは、本刀が、元来刃切れを七箇所ももちながら名物帳に載せられているということである。そこで次は刀身の刃切れについて、兼々思っているところを、丈木刀にまとわせて話してみたい。
刃切れが刀剣の疵のうちで最も忌み嫌われるようになったのは、いつ頃からであろうか。『名物帳』によれば、丈木の刃切れは七ケ所という。『武器目録』では旧帳の記録四つを記し現今では三つ見えると書いている。これが現在可視の刃切れの状況であるが、つまり丈木の刃切れは一、二にとどまらないのである。にもかかわらず丈木はその旨を大書され、錚々たる名物刀の中に伍している。奇怪なことであり、同時に刃切れというものの認識に何か重要な示唆を我々に与えているようにも思える。
刃切れなるものを今更念を入れて説明するまでもないだろうけれど、刀の刃先から横に一文字に入っている割れ疵をいう。製作時の焼入れ温度が低すぎた場合や、冷却した刀身材を槌で強打したりした時、或は実戦に際し曲ったり堅いものを斬ったりした場合等に発生するとされる。丈木の場合はおそらく数多の実戦経過によるものであろうと考えられる。
刃切れが忌避されるのは、もっとも実用上からといわれている。剣戟の際そこから折損する危険度である。しかしこの危険は確実な危殆性を含んでいるのであろうか。「松のはしら」という刀剣談があり、書いた人は百草屋ちぐさや老人という筆名の人物である。この老人は旧幕時代を生きた刀戦経験者であるが、刀の疵を述べている中で刃切れについてこう語っている。
刃切れは実用上何の障りもないという。次に水心子正秀の説くところを引いて、むしろ最も危いのは、むく鍛へに焼刃の深い刀で、目利はキズとは思わないけれど、刀の疵で最も悪いのがこれである、と結んでいる。このことは古刀が腰を厚く華やかに刃取っても、物打より上を浅く地味に焼いているものが少くないことからも首肯される。『日本刀及日本刀史―― 「加賀の名物定木の刀」の項中』が刃切れについて、
と説き、実用時の折損を危惧したのは、おそらく幕末の鑑賞家が唱えたもので、畢境、想像上の唱導に違いない――と結んでいる。
刃切れに対する過剰な嫌悪、忌避感情が士人間に生じたのは前書のいうごとき幕末ではない。神田白龍子が『新刃銘尽』(享保六年)で、松宮観山が『統一歩集』(宝暦三年)で、おのおのその危険性を説いているから、時代は幕末より上るわけだが、少くとも刀剣の実用について実証と経験的な考査を十分に践(ふ)んでこなかった彼等の評言が、長く大きく後世に尾を曳く結果となってしまった。『日本刀講座』が刃切れやしない(撓しなえ)の疵について″ここから折れやすい″と解説しているが、こと刃切れについてのみいえば、迷信の踏襲というべきである。もし、まことに刃切れが刀戦実用上使用者にとって危険なものなら、戦国の実戦を幾度も経験して来きた武将達が使うわけがない。
続きます。
明智光秀の愛刀の話。
そろそろ甲冑の話もしたい。
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