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【考えごと】 色々書いている


 色々書いている。
 私は職務上質量多めの文章を書くこともあるけれど、小説やコラムではない。理屈っぽいことをしょっちゅう書いている。多分そのせいで『ファンタジー書きました〜』の場合でも『官能小説書きました〜』でも、言い回しが妙にカッチカチだったり、我知らず業界独特の表現を入れていたり、何を書いてもだいたい重い。

 紙の本にするためのチェックで自分の作品を読み直してみると、一文がやたら長いこともあるし、漢字漢字していることもやっぱり多い。あまり他人に気を配りながら書いていない。

 私のスタンスは基本的に『全員振り落としてやる🙂』のまま変わらないから、読む人は読むだろうし、読まない人は一切読まないだろうな、と何か書くたびに思っている。
 
 それでも細々続けていると、不思議なことに『読んでくれる人』が現れる。その人たちはさらに不思議なことにコメントやメッセージをくれる。
 長い長い『自称 : 官能小説』に対して、こちらが恐縮するくらいの感想をいただいて、もちろんとてつもなく嬉しいしスクショデータは宝物なのだけれど、不思議に思う事には変わらない。

 この親切な人たちは、私が書くものの何が面白くて読んでいるんだろう?

 記事として『note』向けの内容ではない。性的倒錯嗜好があるから扱うテーマの中にはその辺りが豊富に含まれるし、一般ウケする話でもない。
 スキをつけてくださったり、フォローしてくださる方のアカウントが官能小説特化だったり、性的アカウントなら何となく納得するのだけれど、そうでない方も多い。

 他人に気を配りながら書いてはいないとはいえ、意識はする。意識はするけれども私の文体は『ミズノ節』としてほとんど完成してしまっていてこれ以上伸び代がないし、変化もしないから、ひたすら『スパンキング知らない人に読まれるのやべーなー』と思いながら、特に何も変えずに書いている。

 誰が読むんだ、と思いながらでも書き続けていると、誰かには読まれる。これは間違いない。私の場合は圧倒的に女性に読まれているようだ。

 先に付しておくと私はフェミニストではない。特に何かの思想を抱いているわけでもない。でも、こと性的表現や性的作品においては、女性が大切に扱われる表現が好きだ。女性向けAV発祥の思想とはまた違うけれど、常に『生きづらさを抱いて疲れている女の人』のことは考えている。

 私自身がだいぶボンクラなので背徳的内容も多いかも知れないし、人によっては『年の差ばっかり書くなこいつ』と思ったりするかも知れない。
 でも、きっかけや目的はどうあれ、私が書いた話に出てくる女性陣の健康やその後の人生の幸福を喜んでくれる人々は皆親切だと信じている。

 私が書くものは、なんなのだろう?

 たまに思うのだ。
 『小説』を書いているわけではなくて、『文章』を書いている気がしてならない。でも『小説』という言葉があって知っているから、せっかくだし、と乗っかっている、と、そんな感覚。

 詩の連続のようだ、ととある作品に対してコメントを頂いたことがあって、ははーんなるほど、とも思った。 

 私の文章にはクセがある。
 良い悪いではなく、クセがあるのだ。
 そのクセの特徴の一として『詩の連続っぽい』があるのかもしれない。言われてみれば私は体言止めを多用しているし、擬音しか書かないこともあるし、要は『私の感覚的にはこういう感じ』をふわふわ書いている。
 読んでくれる人がいて、じゃあ、まあその人がいい感じに『感覚的に』想像してくれたらそれでいいや、としていたらこうなっていた。もう取り返しがつかない。ずいぶん昔からそういう『おまかせ』的書き方をしている。

 私に学や趣がないのが原因だと思うのだけれど、『小説』がものすごく崇高なものだとは思えない。
 もうちょっと親しみやすい存在のはずだ。身近に、手軽に、紙だろうが電子だろうが本が好きな人のそばにある。

 『小説』にこだわりが強い人々を批判したいのではないから誤解しないでほしい。ただ傾向として、今まで出会ってきた『小説にこだわる』人たちは大学で文学や国語、哲学や社会学を学問としてきちんと修められていて、『小説』に深く触れ合ってきたように見えた。多くの場合ほとんどみんな、ビッグネーム、村上春樹さんや東野圭吾さんを神様のように信じていた。 
 私はどちらの氏の著作も拝読していない。嫌な言い方をわざとするならどの宗派でもない。
 
 素晴らしい作品が世には山ほどあるし、偉大な作家もたくさんいるけれど、『小説』や『小説家』を神格化するのはまた少し違うのではないかと思う。

 note にはたくさんの『小説』がある。
 『えーっ! このお話をタダで読んでいいんですか?!』と思うような、とんでもない作品を書かれる方がときどきいて、そういう人たちこそ『小説を書いている』のであって、やっぱり私は自分がやっていることが『小説を書く』ではないんだなあ、と思ったりもする。

 いちいちその辺の解説をするのが時間の無駄だから『官能小説書いてまーす』と easy に言ってはいるし、『お前が書いてるの小説じゃねえよ』と言われたら『うるせえバーカ、抜いてから文句言うなボケ』としか返せないのだけれども。

 私は思っていることを書きたいし、大体書いている。時々忙しくて書けないけど。

 自分の中で意見が込み入っていることが多いから、何人かの人格に分けて、名前や姿を持ってもらって、『お話』として構成して書いている。
 
 つまり私が何を『小説っぽく』、『文章で』書いているかというと、多分『意見書』なのだ。
 【橘あおいの愛について】も【わだつみの沈黙】も【ララのセックス】もぜーんぶ『意見書』。

 意見書とするにはいささか地獄度が深めというか、私の中で渦巻いている色んな、ぐるぐるしたもののことを便宜上『地獄』と呼んでいるのだけれど、とにかくその地獄っぷりが深いわけで、でも読んでくれる人はいるからやっぱり不思議なのだ。

 数多の不思議の中でもとりわけ輝く『不思議』がある。あまりにも嬉しくて、心強くなったから何度でも書くし、おおっぴらに言っていることがある。

 【橘あおいの愛について】の最終話について、『あなたの言う地獄の切れ端をしかと見せていただいた』とコメントをお寄せ頂いた。
 
 これって、ものすごく価値のあることで、私は死ぬまで忘れない。
 やったぞ……とか、勝ったぞ……!と、イメージ的には虫の息で思っている。ぼちぼち死ぬくらいの虫の息の中で勝利を確信した感じ。その人に対してではもちろんない。間違いなく、何かに私は勝ったのだ。なんにせよ勝つのはいいことだ。やったぜ。
 
 私は『小説家』ではない。
 『小説家志望』でもない。
 なる気もなければなれる気もしない。崇めたてられるような作品を書いているわけでもなければ、商業で食っているわけでもない。
 だけど吐き出さずにはいられなかった『意見書』、すなわち『私の地獄の切れ端』を、『しかと見てくれた』人がいる。
 
 不思議だ。
 
 とにかく不思議だ。
 なぜ、いまいち正体不明な私の書いているものを見つけて、わざわざ読んで、時間を割いて、コメントを考えてくれたのか。
 
 分からない。
 分からないけれど、十分すぎる。
 そういう人が(そしてこの頃は信じ難いことにそういう人『たち』が)同じ時代の地球にいて、同じ言語を使っていることを私は知っている。
 
 誰のためにも書いていない。
 でも、読んでもらえた時には嬉しいと思う。
 
 だからだろうか。
 気づけば色々書いている。



 



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