【🆗/SM/R18】 Fused Glass （７）

前回⬇️

◇ ◆ ◇

　正己は何度も夢を見る。
　この先何年生きたってどうにもならないことを、あの時、新菜に寄り添ってさえいたならば、もうほんの少しだけ、たった一歩だけでいいから立ち止まって、それからものを言えば、新菜は言葉を失わずに済んだのではないか、ああしてやれば良かった、こうしてやれば助かったのかもしれない、繰り返し繰り返し夢見ては、選び直せない選択肢を、なぜ自分はそちらを選んでしまったのかと、悔やみ続けている。

　取り返しのつかない夢は、夢見るごとにその輪郭に鮮やかさを増し、影を深め、言葉を失う前、正己が最後に言葉を交わした新菜の姿を浮き彫りにする。

　泣いていた。
　怒り狂って。

　その涙の温度すら生々しい。

　夢。

　新菜が壊れてしまった日の夢だ。

　綺麗な薄いガラスが粉々に砕けた。
　正己が慌てて拾い集めようとしても、二度と元には戻らない。
　指にも手のひらにもガラスが刺さる。
　新菜だった、綺麗なガラス。
　きらきら光りながら散らばる。

　綺麗なガラスを。
　未来を宿して様々に輝いていたガラスを。

　正己が。
　拳で殴りつけるよりもずっと容易く。
　言葉で。

　正己が割った。

　いたいよう、と泣きながら逃げていく新菜の声が聞こえる。

◇ ◆ ◇

　その日、正己は土日をぶち抜いた2週間連勤、4時間連日残務をやり遂げて退勤した。社から、駅近くの自宅までは電車の乗り換え無し、１時間はかからないという比較的恵まれた通勤環境で、体力にかなり優れた正己であってもなかなか擦り減る2週間だった。

　緊急事態と言い表すより他ない緊急事態の対応に追われ、急遽追加試験を行わざるを得ない状態に陥った。生データの信頼性が失われた。責めたところで仕方がないが、新卒の申し送りミス及び、インシデントの隠蔽が原因だった。ミスは仕方がない、怖い上司に言う勇気が沸かない気持ちも分かる。

　しかし、失敗は起こりうる、事故も、どれだけ気をつけても防げない場合がある。
　ただ嘘だけはいけない。
　何があっても、嘘だけはだめだ。
　助けに行けなくなってしまう。

　理系の世界で最も忌避されるべきことは、嘘だ。嘘をついて一時的にその場を凌いだところで、普段どんなにニコニコしていても、実のところ異様に鋭い瞳を持つ人がいる、よく研いだ刃物のような、怪物じみた直感を持つ人がいる。

　嘘は、必ず、発覚する。

　そして発覚した嘘は、嘘をついた人を殺す毒になる。
　理系で生きていけなくなる。
　積み重ねたものなんか、呆気なく、本当に溶けるように消える。
　理研の首吊りを知らないとは言わせない。
　嘘だけはだめだ。
　何があっても、嘘だけは。

　正己は新卒と同じ班の所属で、職位の差は無いが中堅どころの先輩にあたる。昭和生まれの叩き上げ、国立難関大出身の上長から目も当てられないほど厳しく叱責されて萎縮し切った新卒を、フォローしつつ、だめなことはだめだと言わなくてはいけない。
　培養だけしている方が、よっぽどマシだ。
　青や白を通り越して土気色になった新卒の顔色は、激しい殴打を受けて気を失う人間のそれに似ていた。

　新卒は、隠蔽発覚の翌日、来なかった。
　代わりに親から怒りの電話があって、パワハラで訴えるとのことだったが、社の損失と原因を説明すると引っ込んでいった。

　色んなことに疲れた。

　正己は、開けた駐車場側に浴室の小さな窓が並ぶ古いマンションに住んでいる。橙色の光が夜にぽやり・・・と溢れていたら、新菜が自宅に居るサインだった。
　彼女もここ最近卒論準備に向けて何かと忙しく会えない日が続いていたが、昨日から珍しく泊まっている。ベッドの中に、すべすべした肌の温かい新菜がいると嬉しかった。

　小さな窓に光が灯っている。
　正己は少し気力を取り戻して、階段を登り、203号室の扉を開けようとして違和感に気づいた。
　激しい罵声が聞こえる。
　新菜の声だ。
　ぞーっと指先から竦むように血の気が引いた。

『新菜！　どうした！』

　飛び込んだ正己を見る新菜の目つきは出会った当初の頃より硬質で、顔面は蒼白、唇は紫、瘧おこりにかかったように震え、スマートフォンを割らんばかりに握りしめている。
　相手方も大声を出していた。
　女性の声だ。

『ど……、新菜、どうしたの、誰？』

『……』

　返事をしてくれない。
　新菜は唇を噛み締め過ぎて血を流している。
　親指が通話終了ボタンを押す。
　間髪入れずに着信が入る。
　【母親】と表示されて、正己は訝り、えっ、と呟いてしまった。

　死んだと言っていなかったか。

　また新菜が電話を切る。
　再びかかる。
　切る。
　次は【父親】と表示される。
　激昂した新菜がスマートフォンを握り、床に向かって勢いよく叩きつけた。ガツッ！と強い音がして、正己の足元に滑り、クルクル回転する。
　保護フィルムが貼られた画面にひびが入っていた。
　床の上で、端末は震え続けている。
　新菜の体も同じように。

『……状況が分からない。何？　どうした』

　正己は自分の声が低くなっていることに気づいた。同時に、いけない、とも思った。仕事の苛立ちを発散する言い訳に、新菜を使おうとしている自分の心の一部の悍ましさに気づき、気分が悪くなる。

『親が、学費、払わない』

　新菜の声も低い。震えてもいる。
　正己は波立つ自分の心に対して、努めて平静であろうとした。
　ひとつずつ、冷静に対応しなくては。
　両手のひらを軽く上げて新菜に見せる。
　打つつもりはない、と示すために、同時に、手を出すなという自分への戒めとして。

『除籍になる』

　新菜の言葉は切れ端ばかりで繋がらない。一緒に過ごすようになって気づいたことだが、もともとおしゃべりが得意という訳でもないようで、彼女の喋り方に慣れるまで正己も多少の時間が必要だった。

　真夜中、眠るのが下手な新菜は、正己の意識がはっきりしていようといまいと、淡々と昔の記憶を喋っていることがあった。

　小さな頃、幼稚園や学校で何があったか、親から『話せ』と言われて、友だちや先生の話をしていたら、『自分のことを話せ』と叱られ、『私は〜だった』と説明し続けていたところ『あんたの話はもうどうでもいい！自分のことばかり！』と怒鳴られたという。
　以来、自分を軸にした話をするのが怖いのだと。そして次第に、喋ることも億劫になってきたのだと。無口でいる新菜のことを、自己主張のない、つまらない子だと親戚中が笑って、その笑い声の中心は両親だった、と。

『新菜、落ち着いて、一回結論だけ話して。』

　正己の夢は、いつもこのあたりから明確になっていく。何度も『こんなふうに言わなければ良かった』と思い返し過ぎて、焼き付けたように、輪郭が濃くなっていく過去。

『除籍にされる』

『分かった。対策は？』

『ない。払いきれない。足りない。』

『大学の事務部に連絡は？』

『してない』

『明日朝イチで学校行ってまっすぐ事務部入れ。担当教授にはすぐメールして説明しとけ。私学でも、いきなり除籍はない。』

　スマートフォンは鳴り続けている。
　【父親】、【母親】、繰り返されては【不在着信〇〇件】になって澱のように積み重なっていく。

『それから、俺が聞いてた話と、色々違う。新菜、学費は奨学金とバイトでなんとかしてるんじゃなかった？　それから、ご両親は亡くなったって、聞いていたけど。』

『……。』

『なんで黙んの？』

『奨学金も、バイトも、してる。親よりも私が払ってる！　借金だらけだよ！　ほんの少ししか払ってないくせに、それも払わないって！　私がバイトできなくなってきたの知ってるくせに！　辞めたくないの知っててやってる！』

『……いや、今新菜の気持ちの話じゃない。親に払ってもらってるじゃん。生きてるじゃん。なんで嘘ついたの？』

『……。』

『だからなんで黙んだって。親のことで変な嘘つくな、嘘つき。親だぞ。』

　どうして寄り添ってやれなかったんだろう。
　どうして言い方ひとつ考えられなかったんだろう。
　どうしてこんなに愚かなんだろう。
　どうして。

『嘘はだめなんだよ新菜。学生でも理系だろ。嘘が1番だめなんだって。あと親が死んだとかそういうの本当だめだよ。そういう嘘つかれると、どれもこれも信用できなくなる。妊娠流産のことも本当？　嘘じゃない証明をしなくちゃいけなくなる。手間が増えるだろ。嘘つくな。家族のことで。普通はつかないんだよ、親が死んだとか、1番だめな嘘だよ。』

　新菜の震えが、ピタッと止まった。

　人間、本当に怒った時の眼差しは、ずうっと透き通っていて綺麗で、目が離せなくなる。
　場違いに、綺麗だな、と思った。
　少し赤が強い、大きな目。
　
　一瞬何もかも静かになって、ぐらぐらと水が沸騰するように、あるいは、遥か遠くより轟きながら突如として突き上げる不穏を孕む地鳴りのように、新菜の瞳に激甚な怒りが爆発して燃え上がった。
　新菜は吼えた。
　絶叫して、顔を掻きむしった。　

『自分が！　自分がたまたま！　親に恵まれただけのくせに！！』

　正己は困って、鳴り続けるスマートフォンを拾い、新菜に渡そうとした。
　
『要らない！　親も！　あんたも！　全部要らない！　ふざけやがって！！　普通ってなんだよ！！　みんなどいつもこいつも親親親親うるせえんだよ！！　みんな！！　死ね！！　親が全部やってくれる家に生まれて良かったね！！大事にしてもらえて良かったね！！　なに？！自慢？！　お金持ちで？学歴があって？家族と仲がいいの？　自分がそうだからってみんながそうなんて思うなよバカが！！　普通って何！？　私が頑張ったのに！！　流産なんかの嘘なんか、つかない！！　どうして、男なんか、どうして！！　私がここまできたのに！！　お前なんか！！　死ね！！　お前なんか死ね！！』

　横面を『バシッ』と叩いてから、手が震えた。
　ごめん、も違う、落ち着いて、も違う。
　新菜が頬を抑えて、えーん、と泣いた。

『あ……新菜、待って、違う』

　小さな背中を丸くして、えーん、えーん、と泣きながらとぼとぼ、玄関に向かって歩いていく。スマートフォンだけは拾い、電源を切り、底のゴムが擦り切れたconverseを引っ掛けて出て行こうとする。

『いたいよう、いたいよう……』

　おろおろと背中に触れようとした瞬間、ずっと背が高い正己が怯むくらい強く振り払われた。
　新菜は正己の全てを拒絶して、玄関を開けて、いたいよう、と泣きながら出て行った。

　正己はもちろん着いて歩いた。
　階段を降り切った瞬間、新菜が、誰かに心を乗っ取られたように『着いてこないで、変態野郎、警察呼ぶよ』と唸った。

　それからまた、いたいよう、と泣きながら歩いていく。

　正己はバカそのものを体現した姿で、駐車場に立ち尽くし、新菜の姿が暗闇に吸い込まれて見えなくなってもなお、途方に暮れていた。

　全く眠れないまま迎えた翌日、それでも会社には行った。上長や同期がぎょっとして正己を見て、新卒を締めに締めた彼がそっと給湯室に呼びつけ、極めて小さな声で『体調悪けりゃ早退しろ、な。樋野に頼り過ぎたな。ありがとうな。樋野が踏ん張ってくれたから、ヤマ越えられるよ。代休申請で、良かったら俺出しておくからさ、な。』と言った。

　ひどい顔をしているのだとその時分かった。
　頭の中は新菜のことでいっぱいで、こと感情の切り替えについてはきっぱりしている正己にとって初めてのことだった。
　今まで散々、多くの自称masochistたちをぶちのめしてきたが、その感触は砂が風に吹き飛ばされるくらいに空しいもので、残らなかった。新菜の頬を打った感触だけは指先でなぞれるくらいに、ここにある。

　いえ、ちょっと休憩だけさせてください、と言いかけた時、ポケットのスマートフォンが震えた。
　上長が気を遣って半歩ほど体を引き、正己はその気遣いを受け取って誰からの着信かだけを確かめようとした。

　【新菜】　

　の二文字が、画面が、光っている。

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