暑いとぐるぐるする心
暑い。
私は暑いのが大嫌いだ。
特にこの、極東アジア特有のジメジメグズグズ、曇り空は、鈍色にどんよりしているくせに奥に太陽を隠して、陰気臭く卑屈にぎらついている感じがものすごく嫌いだ。
気圧は下がるわ湿度は高いわ、割と派手に嘔吐するくらいに頭痛がきついわ、癖っ毛は出るわ下着は蒸れるわ化粧は崩れるわ、泣けてくる。気持ち悪い。フルストレスで電車に乗って通勤して、名前も素性も知らない人々の、じっとりした汗が滲み出して澱む空気を吸って、息苦しくて、どうにか着いた会社でこれまたもう心を削る患者検体を、心のスイッチのオンオフがうまくいかない状態で受け取ってしまって、ひたすらつらい。
暑い。
蒸し暑い。
この時期の朝がものすごく嫌いだ。
でも、冷房の効いた部屋で働いている。会社に着いてさえしまえば、なんとかなる。熱や湿気ですぐダメになってしまうものを取り扱っているから、サンプル保持の関係で、場合によっては16度くらいの部屋にいることもある。日差しが届かない場所にいる。帰る頃にはすっかり暗い。
私の夫は外で働く人だ。
物のよく分からない、ど世間知らずのクソバカのガキがランキングを作って『底辺』と呼ぶような外仕事。てめえ私の前で目え見て言ってみろ、お前の家族を若い順から1人残らず全員殺して野良犬の餌にしてその犬も殺してドブに捨ててお前の住所近隣一帯にガソリン撒いて全員巻き込んで焼き殺してやるからな。最後がお前だ。お前だからな。
前もどこかで書いたけど、夫はいわゆる職人さんなので、リモートワークも何もない。まあ私にもないけど。帰ってきた彼の作業着や肌着が、塩で真っ白になっていることも珍しくない。
心底不安になる。
私ができることは少ない。
献立に気を使うとか、食べたいものを作るとか、衣服を清潔に洗濯するくらいしかできない。むしろ、させて欲しい。
夫を尊敬している。
夫は、私を尊敬していると言う。
こんな化け物をどうして。
今から数年前、つまり結婚する前、この時期の彼はヨレヨレだった。そりゃそうだ。35度だの40度だの、タンパク質が変質し始める気温と湿度の中、体を使って頭を使って、汗を流して力仕事をしているんだから。
外で働く人々は、体調管理の感覚に鋭い人が多い。ちょっとした『おかしいな』が、大怪我や死に繋がるからだと思う。
だからこまめに休憩をとっていることは知っている。でも暑いことには変わらないし、彼の体力が奪われることにも変わらない。
結婚する前、すなわち、『なんか中国あたりでまたSARSっぽいの流行ってる??』と院内でちょっとザワッとした頃。冬ごろだ。おそらく医療系に勤めていない人々は、まだ『インフルかな?気をつけよう』くらいでいた頃。
暑かったらしい。
あの年の夏も。
私はずっと病院にいた。
所属によると思うが、概ね、当時の医療従事者は外出禁止令や、受け入れ指定病院だと家族との接触禁止令も出ていたと思う。
私の当時の勤め先は受け入れ指定病院だった。
だから誰とも会わなかった。
もちろん当時の彼とも、誰とも。
嫌なニュースばかり耳に入った。
忙しいと、だんだん情報の取捨選択が出来なくなっていく。切り捨てられなくなっていく。
あの時、反ワクチンだかなんだか知らないが、その運動でクラスターを起こしたバカや、ワクチンはワクチンを打てない人のためにもあるのだと理解できない心が貧しい上に考えなしのバカや、変な宗教を始めたバカや、医療従事者やその子どもを差別したバカや、『奉仕の精神で賞与を削れ』と言ったバカや、自治体や国から医療従事者へ向けた補助金や危険手当を『ずるい』とわざわざお手紙やお電話にて批判してくださったバカの皆さん、お元気ですか。医療崩壊しなくてよかったですね。お前らが死ねばよかったのに。
お前らが。
死ねばよかったのに。
今からでも遅くない。
全然。
お前らが。
死ねばいいのに。
今。
死ねよ。
でも、もしあなたやあなたの家族や友だちが無事だったなら、よかったね。頑張った甲斐があった。乗り切った甲斐があった。
不思議だろう。
私も不思議だ。
バラバラのことをひとつの体でぐるぐるどろどろ同時に思っている。
時々私の中のまともな部分が、チカッと綺麗に光る。その綺麗な部分だけを集めて生きていけたらいいのに。そしたら、多分、夫は宝石姫みたいな女の人をお嫁さんにできるのに。
申し訳ない。
怪物のまま、戻れない。
どう戻ればいいのか忘れてしまった。
ウエディングドレスも、着忘れたまま。
その年の夏、当時の彼には会えなかった。
人間の姿のまま人間ではなくなっていく私にとって、彼が1日も欠かさないで続けてくれたLINEだけが、それだけが、か細い希望の糸だった。
彼自身、現場に出るしかない人だ。
人通りが少なくなった往来で、俺は仕事がしやすいけど、でも今年も暑いねえ、と言っていた。
その頃から、私はテレビ番組を観なくなった。気温は分からない。でも暑いことだけは間違いなかった。ニュースを見たってストレスが溜まるだけだから、医局のテレビではYouTubeのゲーム実況が流れていた。助かった。私が今でもゲーム実況が大好きなのは、その当時、私がいた医局や研究室の人を助けてくれたからだ。
世間がどうでもよくなった。もともと大して興味のない政治の動向も一切どうでもよくなった。
どうでもいい。
今でも、正直どうでもいいままだ。
病院であれ外現場であれ、当該の場所で踏ん張る人を、盾になる人を、バカにしたり下にみたり差別したり、変な思想で罵ったり、ストレスの捌け口にする連中だらけのこんな国なんか、どうでもいい。
でも、やっぱり同時に、子どもさんやこれから赤ちゃんを産んでくれる妊婦さんたちには、安心して暮らしてほしいと思うし、給食が夏休みも冬休みも空調が効く部屋で支給されて子どもがせめてお腹いっぱいでいられて、そのために給食費が全額ほんとうの無料になるなら、税金が年額20万くらい増えても我慢する。頑張る。ごめん、子どもがいない私にはそれくらいしかできない。
ごめん。
気持ちに寄り添えなくてごめん。
お金しか払えなくてごめん。
それで、そのお金も大した額が払えなくてごめん。
大人も死ぬような熱中症が起こるこの国の夏、車の中で蒸し焼きにされて殺される子どもを、バスに置き去りにされて水筒が空っぽになって死んでいたあの女の子を瞬間移動して助けに行けなくてごめん。
ごめん。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
助けに行けなくてごめんなさい。
本当にごめん。
小さい人々を。
助けられなくてごめん。
大人なのにごめん。
ごめんよ。
暑い。
私は暑いのが大嫌いだ。
この国ごと、この国の夏が嫌いだ。
私は、小児がん由来の検体を扱う。
面構えの凶悪ながん細胞。
破壊された組織。
電子カルテは見たくない。
心のスイッチをオフにするコツがあるのだが、夏、暑いとうまくいかない。
びっくりするかもしれないが、実は子どもって死ぬのだ。ガンで。
びっくりするだろ。
私もする。
暑い。
生きていてほしい、みんな。
でも私が今日捌いた検体の子はもういない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?