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物語の終焉 #8

物語の全体像

記憶の断片を集めながら、パズルのピースを仮説でつなぐ。
新しい記憶の断片が出てくると、それまでの仮説がくつがえり、新たな可能性が見えてくる。
その過程を繰り返しながら、私の中の空白はだいたい物語がつながるようになった。

こうして振り返りながら、私の身に起きたことの全体像が見えてきて改めて思うのは、幼少期からずっと、子どもの理解できる範囲をはるかに超えた大人の複雑な事情や、大人でも受け止められない複雑な感情を容赦なく浴びせられ続けてきたということだ。

大人が抱えきれない複雑な感情を幼児が処理できるはずもなく、そのことを自分の弱さや甘えだと繰り返し自分を責めてきた。

親に対する幻想

自分を責めるしかなかったのは、親はいつだって正しいと信じ込まされてきたから。
どんなに何かおかしいと思ったとしても、絶対的に正しい親に逆らえば、殺されるという弱い立場の子どもは、生き延びるため黙って耐える以外にできることが無い。

耐えるしかない苦しみの中で、幻想を作り出す。
世間一般の幸せな親子像。
どんなことがあったとしても子どもを愛さない親はいないというような世の中で広く信じられている親への信仰のようなものを、自分の親の中に重ねて探そうとする。

親の中に幻想を見ながら、それが何度も裏切られることに深く傷つき憤怒する。
そしてそんな酷い扱いをされるのは、自分が大切に扱われる価値が無いからだと自分を責めて、自分に価値をつけなければいけないという強迫に追われるようになる。

一番 苦しかったこと

何が一番苦しかったか?
それは、両親には、表面的に外向きに立派な社会的地位があり、子ども想いの親であるという完璧な振る舞いがされていたこと。

だから家庭という密室の中で繰り広げられている残酷なことの数々を誰も想像できないに違いないという絶望。

私が何を言ったとしても、立派な両親に育てられたくせに甘えて不満を言うだけの成長できない子どもという風に黙殺されてしまうこと。

その表向きに完璧に塗り固められた立派な嘘を守るために、私は一人でその闇のすべてを背負い続けなければいけないのか?と思うと、圧迫感で窒息しそうな感覚になる。
 
彼らが作り上げた虚構の物語を守るために私は一生犠牲になっていなければいけないのか?
それは彼らの物語だ。

役を降りる

自分たちが実社会で完璧な善人を演じ続けるために、実社会では人に決してやらないような残酷なことを家庭という密室の中で、自分よりも圧倒的に立場も力も弱い子どもにやりつづけることでバランスを保っているような構造の世界。

夫婦間の男女の問題を幼児に背負わせて、世間的に見たら円満夫婦と円満家族の形を保ち続ける。
 
幼児は自分にされていることが何なのか理解できないまま、恐怖と嫌悪感に耐え続ける。

みんなが自然に身に着けながら発達させていく性への興味や概念、性にまつわる複雑な人間関係の成長過程をみんなと一緒に歩むことができなかった。

周りが当たり前に性への興味を深めていく中で、私にとってそれらは、近づいてはいけない恐怖をともなう何かでしかなかった。

ずっとそういう情報を遮断して近づかないようにしていたせいで、みんなが当たり前に話題にする恋愛話も実は恐怖でしかなかった。
一体何が楽しいのかわからなくて、近づきたくない話題だった。

私はみんなと同じ成長過程を歩めなかった欠陥人間で、その失った時間はもう取り返しがつかないものだと思うと、どう生きればいいのかわからないという空虚な絶望をぼんやり感じるばかりだった。
 
でも、記憶の断片を集めながら、記憶と感情の統合が進むにつれて、本来の私は何を感じているのか、何が楽しくて何を心地よいと感じるのか、もっと自分の本来の感覚を大切にしてもいいと自分の存在を認められるようになっていった。

本来の私が何を心地よく感じるか、何を楽しいと感じるか、それらは家庭という密室の中では抹殺されて、それらを感じることは絶対に許されないことだった。

本来の私が生きることは決して許されず、彼らが作り上げた物語の中で彼らの感情の面倒を見て、彼らの苦しみを背負う責任を死によって脅迫されながら果たすことを強制され続けていた。
それは彼らが作り上げた物語だ。
 
私は、本来の私が楽しく心地よく生きられる物語を描いて生きていきたい。
それがオルタナティブストーリーだということをようやく受け入れられた。
新しい物語。
私の中の空白はたくさんのメタファーで満たされている。
 
(おわり)


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