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パズルのピース #4 母から虐待されていたと認識できるまで

なぜ私は父からずっと逃げられなかったのだろう?
それは父が、母から逃げてきた避難先だったからだった。

階段から落ちた真相

3歳の頃、私は階段から落ちて額に大きなタンコブを作ったことがあった。
病院でレントゲンを撮っても異常がなく無事だった。
子どもの頃によくある怪我の一つと思っていた。
でも実際はそうではなかった。
そういうことにされて処理された、というだけだった。
 
蘇ってきた記憶の中で、私は背中に衝撃を受けて次の瞬間には、頭蓋骨がコンクリートに打ち付けられる衝撃を感じて死んだ、と思ったけれど、死んでいなかった。
じわじわと激痛が襲ってきた。

何が起きたかわからないまま、うずくまってひたすら痛みに耐えていた。
母のつぶやきが聞こえた。「しぶとい」と。
私は、生きていたらいけないの?と混乱しながら、息を殺して痛みに耐えていた。

母は、そんな私を離れたところで眺めながら、「めんどくせえな、病院に連れていくか」とつぶやいた。

病院では、階段から落ちたのに額にしか傷が無いことをお医者さんが訝っていた。
お医者さんは私の目を見て、「本当に階段から落ちたの?」と聞いた。
私は「はい」と答えた。
泣いたかどうかを聞かれて、泣かなかったと誇らしげに答えた。
褒めてもらえるかと思ったから。

でもそういうことではなくて、頭を強く打った場合に、そのとき意識があったかどうかを確認するためだと説明されて、私は意識があったので、少し泣いたと答えた。
涙が滲んでいたから嘘はついていないと思いながら。

レントゲンに異常が無いことを確認して、お医者さんと看護婦さんはホッとした表情を浮かべて、「転んだときは手を突こうね。そうしたら頭を怪我しなくて済むから。」と教えてくれた。

私は転んだわけではないし、頭から落ちた場合、どうやって手をつけばよかったのか?と、頭の中でシミュレーションしたけれど、気づいたときには頭蓋骨に衝撃を受けていたから、それは不可能だと思った。

転んだのではなくて、背中を突き飛ばされて頭から落ちたのですけど、と言える隙間はどこにもなかった。

レントゲンに異常がなくても、脳内出血している可能性があるので、しばらく安静にして、頭の痛みがひどくなったり吐き気がしたら、すぐに病院に来てくださいと言われて、家に帰った。
 
仕事から帰ってきた父が、私の額の大きなタンコブを見て驚いていた。
階段から落ちたと言うと、お医者さんと同じ反応をして、階段から落ちたのに額にしか傷がないのはおかしいと訝った。

父には本当のことが言えるかもしれないと一瞬期待したけれど、すかさず母が、「頭が大きくて重いから頭から落ちた、レントゲンに異常は無かった、石頭だ」と笑い話にすると、父も姉も「石頭」と笑って、私は笑いものになって話は流れた。
私は石頭と言われて笑われたことが恥ずかしくて、自分のせいで怪我をしたと恥ずかしく感じた。

現実は、誰かの都合のいいように簡単に塗り替えられてしまうと、この時に学んだ。

私はこの出来事を母親が塗り替えたストーリーで認識しながらも、「この人は危険」という身の危険の感覚も同時に身体のどこかに刻まれた。


幼稚園で初めて知ったこと


それは、家にいる大人の女の人はお母さんと呼ばれる人だということだった。
母の日に、おかあさんの似顔絵を描くとき、みんなはおかあさんが大好きとか、おかあさんが優しいとか、うれしそうに話している。
私は、それは誰のこと?とわからなかった。
話を聞いていると、どうやら家に居る大人の女の人のことをお母さんと呼ぶようだとわかってきた。
おかあさんて優しいの?
なら家の中で起きている怖いことはなんだろう?と、よくわからなくなったけれど、みんながおかあさんは優しいと言うので、私もみんなの真似をして、おかあさんはそういう人だと思うことにした。


幼稚園にほとんど行っていない


小学校に入学する前までの私は、病弱で体の弱い子だった。
ずっと家の中から出てはいけなかった。
外はバイキンだらけで危険がいっぱいだと母に毎日言い聞かせられた。
それでも私は外にでたくてたまらなかった。

病院に行くために外に出られることがうれしかった。
頻繁に少し離れたところにある開業医の小児科に通っていた。
父からは近所の総合病院でいいんじゃないか?と言われていたけれど、母はその病院の悪い評判をどこからか集めてきて、二度とその病院に行こうとしなかった。
今思えば、その病院は、私が階段から落ちたときに行った病院で、虐待の疑いの目を向けられたところだった。
 
すっかり顔なじみになったお医者さんは、とても物腰が柔らかくて優しい白髪交じりのおじさんだった。
看護婦さんも薬剤師さんもみんな優しかった。
私はその場所を自分の遊び場のように思っていた。

そこへ通い始めたきっかけは、私が風邪をひいて咳をしたことと、お腹に丸い小さな湿疹ができたことだった。
そこで母がお医者さんに話したことは、大げさな嘘だった。

・少し咳が出る → 咳が止まらない
・お腹に丸い小さな湿疹ができた → 今は治まっているけれど夜になると かゆがって眠れない など。

私はなぜそんな嘘をつくのか不思議だった。
毎回、甘いお薬をもらって帰った。
液体の甘いお薬を飲むのは嫌じゃなかったし、お医者さんも看護婦さんも薬剤師さんもみんな優しいから私は何の抵抗もせず、小児科に素直についていった。
遊びに行っているような感覚だった。

もらった薬を何日か飲んだだけでまたすぐに、その小児科に行った。
母は薬が効かないようだと話している。
先生は、少しずつ薬の量を増やした。

母の嘘はエスカレートしていった。
薬が効かない、と。

先生が「今は全然咳が出ていないようですけど?」と不思議そうに言うと、母は「夜になると咳が酷くて止まらなくなるんです」と熱心に訴えた。

私は誰のことを言っているんだろう?と不思議だった。
先生は「子どものうちからあまり強い薬は出したくないけれど、もう子ども用で出せる薬が無い」と言って、大人用の錠剤や大きなカプセルや粉薬を処方するようになった。

幼児が飲むには難しい薬ばかりが増えていった。
母は、薬を飲み込めない私を熱心に励まして、飲み込めたときは物凄く褒めてくれた。

そんなことは初めてだった。
母が私に興味を向けることも、私を褒めることも、私に笑顔を向けることも今までに体験したことがなかったから、私はたくさん薬を飲めることは良いことだと思うようになった。

看護婦さんも薬剤師さんも、「こんな大人用の薬は子どもは普通は飲めないのに、よくがんばっているね、偉いね」と褒めてくれた。
私は嬉しくて得意気になった。
 
熱心に大量の薬を飲ませる母の様子に不安そうに私の体を心配していたのが父だった。
母は聞く耳を持たなかった。
私はいつのまにか、喘息と卵アレルギーでアトピーが治らない体が弱い子どもになっていた。
 
私は幼稚園に入園してから、ほとんど幼稚園に行けたことがなかった。
体が弱くて外に出られないから。
1回でも咳が出たら、その日は外に出てはいけないという決まりになっていた。

病院だけが例外だった。
私は本当は元気なので、エネルギーがあり余っていて、外に出たくて仕方がなかった。
でも、外に出たいと母に言うと、咳をした私が悪いという風に言われて、外に出られないのは私のせいだと言われた。
 
頻繁に通っていた小児科でも、私はいつも元気いっぱいに看護婦さんや薬剤師さんに話しかけていたので、こんなに元気いっぱいなのに幼稚園にいけなくてかわいそうねと同情されていた。
 
母が私を連れて行っていたのは小児科だけではなかった。
少し離れた大きな病院の眼科にも連れていかれていた。
目の焦点を合わせる筋肉が弱いとかで、訓練をしても良くならなければ手術が必要だという話を父にしている時の母は喜々としていた。
 
結局、幼稚園の3年間は、ほとんど行けないまま過ぎ、もうすぐ小学校入学という頃、父が会社の人から情報をもらって、スイミングスクールのチラシを持って帰ってきた。
スイミングスクールで体力をつけて、肺活量が鍛えられると喘息も改善するかもしれない、と。

父は私に「外に出て遊びたいだろう?」と聞いた。
私はその話に飛びついた。
私はスイミングスクールに通い始めることになった。
母は不機嫌になって何も言わなくなった。
 
スイミングスクールに通い始めて、外に出て遊ぶようになった私は、水を得た魚のように元気いっぱいに動き回るようになった。
いままで閉じ込められていたエネルギーを一気に発散するように、好奇心のおもむくままに外で夢中になって遊ぶようになった。

薬も全く飲まなくなった。
体が弱いというのは一体なんだったのか?
喘息もアトピーも見る影がなくなった。
風邪をひいて熱を出したときは、気管支炎になりやすい傾向があったけれど、ほとんど風邪をひくこともなくなった。

成長するにつれて体力がついて体が丈夫になったから、ということになっていたけれど、記憶の細部が蘇るにつれて、母の行動は代理ミュンヒハウゼン症候群だったと認識が変わった。
私は母によって病気を作られていた。
それは虐待だった。
 
こうして私は、家の中に閉じ込められていた母親の世界から、外の世界へと解放してくれた父親の世界へと避難して生きるようになったのだった。
 
(つづく)


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