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新聞はただの習慣病。でも、だから、やめられない。

新聞の購読率がどんどん下がっている。特に若い世代では、新聞を読まない人が多い。ネットやテレビで充分、ということらしい。

確かに、「情報を得る」という点では、ネットやテレビの方が早いし、情報の種類も多い。ネットなら、気になったことがあれば、さらに詳しく調べることも容易である。“機能性”で言えば、新聞に勝ち目はない。

だが、新聞にこだわる人は多い。「朝、新聞を読むことが、1日の始まりになっている」「お茶の時間にじっくり読むことが、楽しみになっている」「トイレに新聞を持ち込まないと、用が足せない」。そんな人たちが多く存在する。

情報取得の機能性など、まったく関係がないと言える。生活に根づいた習慣なのである。「読まずにいられない」「読まなければ、1日中気持ち悪い」「何かを忘れたモヤモヤ感が残る」。捨て去ることのできない、大切な習慣となっている。

実は私も、その習慣病の患者である。読まないと、イライラしてしまう。新聞休刊日には、「何で休むねん、いまどき!」と、勝手なことを言っている。

新聞に書いていることは、前日にネットで見た記事も少なくない。最近は、片寄った報道や間違った解釈で叩かれることも多く、真剣に読む価値があるのかどうかは、若干疑問ではあるのだが。それでも、読まずにいられないのは、やはり習慣病なのだろう。

長年の習慣なので、治療するのは難しい。治療する意志も弱いので、なおさらである。1ヵ月数千円で、毎日を心穏やかにしてくれる新聞。この病気を治す必要があるのだろうか。

治したいと思う人は購読をやめれば良いし、治す意志のない人は読み続ければ良い。「新聞がいるかいらないか」という議論をしても、意味がないのではないか。嗜好品のようなもので、なくなっても困ることはないが、ないと淋しい存在なのである。

だが、このまま購読率が下がり続けると、存在が危うくなる。好きな人の楽しみを奪ってしまう。なくならないようにするには、ネットやテレビでは流れない情報・内容を提供しなければならない。新聞でなければ知ることのできない情報を掲載することである。

最近の新聞記事は、手抜きが多い。ネットから引用したようなものがよく見受けられる。これでは、魅力がなくなる。読む人が減るもの仕方がない。

新聞はいま、「変革期」に来ているのだろう。新しい情報の伝え方を探さなければならない。

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