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「死」という概念(心臓死・脳死)

伝統的に「死」とは「心拍動・呼吸運動・脳機能の永久的停止が明確になったときである」と考えられてきていて、医師は臨床的には死の三徴候を確認することで「死」を宣告してきました。

[死の三徴候]
①自発呼吸停止
②心停止(心拍動停止)
③瞳孔散大・対光反射消失(脳機能停止)

医師が家族に向かって「ご臨終です」と言うときは死の三徴候を確認してから言っています。

死の三徴候が表れているということはその人の「死」を意味するのですが、これは医師たちの間で長年に渡って培われた経験則だそうです。死の三徴候が確認された後に生き返った人間はいないので、死の三徴候を確認したらもう「死」と断言しても大丈夫だろうということなんですね。

死の三徴候によって確認される「死」は心臓死と呼ばれます。昔からある一般的な「死」の概念ですよね。多くの人は心臓死によって人生を終えることになるかと思います。

昔からある一般的な「死」の概念である心臓死は理解できましたが、続いて脳死とはどのような概念なのでしょうか。

脳死状態の人間というと、病室で生命維持装置につながれていて臓器移植のドナー(提供者)になるというイメージを持っている方は多いと思います。

これは正解です。脳死とは脳死状態下での臓器移植を可能にするために作られた新しい「死」の概念であるので、脳死と臓器移植は切っても切れない関係にあります。

今からどのようにして脳死という概念が生まれたか説明していきますね。

人工呼吸装置など様々な生命維持手段が現代医学では発達しています。この生命維持手段というのは機械の力によって無理やりに生命を維持させます。その人自身の力では心臓死になってしまうところを何とか心臓死にならないように持ちこたえさせるのです。

生命維持手段が発達していない状況では脳死状態が続くという状況に陥る人間はあり得ませんでした。脳死とは文字通り脳が死んでいる状態になることです。脳機能が不可逆的に停止する脳死状態となったら、自発呼吸が停止した後に心停止が起こって速やかに心臓死するので、昔であれば普通に心臓死として「死」を宣告することができました。

しかし、現代では生命維持手段が発達しているので脳が死んで脳機能が不可逆的に停止した脳死状態になっても速やかに心停止が起こらなくなりました。

脳死状態の人間が生命維持手段によって持ちこたえている間は心臓死にはなりません。自発呼吸が停止していたとしても、生命維持装置が無理やり心臓を動かしているからです。このような状態では死の三徴候を確認して昔からある一般的な「死」の概念である心臓死を宣告することができません。

しかし、生命維持装置によって無理やり持ちこたえさせられたとしても、脳死状態の人間は脳が死んでいるのでホルモン調節や神経性調節ができなくなり2週間以内に必ず多臓器不全を起こして最終的に心停止に至ります。

つまり、脳死状態になった人間は2週間以内に必ず心臓死するということです。

どうでしょうか。2週間以内に必ず心臓死することが決まっている脳死状態の人間は「生きている」といえるのでしょうか。

この脳死状態の人間における臓器の機能はしばらく保たれることになります。無理やり心臓が動かされているので血流が循環しているからです。この脳死状態の人間の臓器は臓器移植に最適であるとは思いませんか。

例えば、心臓移植は生きている人間がドナー(提供者)になることができませんよね。なぜなら、心臓をあげたら自分が死んでしまいますからね。

また、心臓移植は心臓死した人間もドナー(提供者)になることができませんよね。なぜなら、心臓死の状況では心臓の機能は保たれていないので心臓をあげることができませんよね。

では、脳死状態の人間は心臓のドナー(提供者)になることができるでしょうか。どうでしょうか。なれそうですよね。脳死状態の人間では心臓は動かされているのでまだ心臓の機能が保たれています。機能を保ったままの心臓をあげることができます。
問題は脳死状態の人間が心臓を提供した瞬間に脳死状態の人間自体は確実に死ぬということです。心臓をとられたから死ぬというのは分かりやすいですよね。

そうなると脳死状態の人間を「生きている」と定義するとこの心臓移植は行えないことになります。臓器移植を行うために「生きている」人を死なすというのは倫理的にできないからです。そこで臓器移植を行うために脳死状態の人間を「死んでいる」と定義しなければいけない状況が発生しました。

こうして新たな「死」の概念である脳死が生まれたわけです。

脳死状態の人間は臓器提供を行う人は脳死という「死」にされますが、脳死状態の人間でも臓器提供を行わない人間は自然に心臓死するまで「死」を待ち続けることになります。このことからも脳死という新たな「死」の概念が臓器移植のために生まれた概念だということがお分かりいただけるかと思います。

脳死という新たな「死」の概念は臓器移植法によって法的に、そして法的脳死判定項目によって医学的視点から「死」と断定されます。

そうであるとはいっても、脳死を「死」と定義していいのかという問題はしばしば議論になるところですよね。

これは心臓死の状態の人間が分かりやすい「死」であるのに対して、脳死状態の人間は分かりやすい「死」ではないからです。

心臓死状態の人間の身体は冷たくて「生きている」という感じが全くしません。家族などももう絶対生き返ることなどはないなと思って「死」を認めることができます。

ところが、脳死状態の人間の身体は温かくて、髪の毛は伸びるし排泄もします。要するに傍からみていると眠っているかのような状態にしか見えないわけです。この眠っているかのような脳死状態の人間を臓器移植の時点で確実に「死なせていいのか」と家族などは目前にしたときに思ってしまうわけです。

もちろん法的・医学的な客観的な視点によって脳死というのは確実に「死」であることを担保されているので生き返ることはあり得ず脳死状態の人間は「死んでいる」わけですが、家族からすると「死んでいる」ようには見えずにある日突然起き上がってくるのではと思ってしまうということです。

家族が脳死状態の人間を主観的視点によって「死」と認められるかどうかというのは、法的・医学的な客観的視点は相容れない領域であるわけですから脳死を「死」と定義していいのかという問題はしばしば議論になるわけなんですね。

参考文献
脳死と臓器移植:

https://www.keiwa-c.ac.jp/wp-content/uploads/2013/01/veritas06-08.pdf

脳死判定をめぐる生命倫理:https://www.jstage.jst.go.jp/article/jabedit/9/1/9_KJ00002059088/_pdf/-char/ja

脳死に関する考察:https://www.jstage.jst.go.jp/article/juoeh/8/2/8_KJ00002505700/_pdf

海外から見た日本の脳死・臓器移植:https://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/OJ_files/OJ6/kudo.pdf

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