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『レインツリーの国』理解のために、共感のために常に自己嫌悪の自分でいる vol.462

最近、自分の中で新しいものに出会うエネルギーが大きいのか、これまでに感じたことのない、出会ったことのないものに出会う回数が増えている。

そうなると今度は、これまであったものや当たり前にやっていたことが馬鹿馬鹿しくもなったりするのですが笑。

自分の中の辞書に新しい文字がどんどんと足されていっている感覚。

この本もそんな出会いでした。

恋愛小説の部類に入るのでしょうか。

多分普通に生きていたら手に取らなかっただろうなと思うこの本、自分の感じたことや思ったことを書いていきます。

恋愛小説さん、初めまして

どうも恋愛小説というのは、読んでいる途中から溝のあたりがむず痒くなってしまいます。

もう多分、これだけで自分一人だったら読まんだろうなと思うのですが、食わず嫌いだったなと感じました。

読んでみて、あぁ、こんな深みもあるのかと、一般的な小説なんかよりも自分の恋愛観と比較しながら読み解くからこそ、実は本を読んでいるようで自分を読んでいるのかもしれません。

実際にもこの本の中の登場人物に自分を重ねている自分がいました。

「自分だったらここでこうはならないな」とか、「いやこれはちょっとすごいな」とか。

女の子の理想の男の子の姿というのが美化され、こういうところにキュンとするっていうのはこう言ったところから積み重なって出来上がっていくのかと、ちょっと気持ち悪くも構造的に分析してしまう自分がいたり笑。

とにかく読んでいてワクワクというよりかは、本当にドラマを見たり映画を見たりするようにスラスラスラと読み進められました。

知らないは残酷、知っているも残酷

この本は1冊の本から始まり、メール、チャット、デートと続いていく健聴者と耳の悪い子との恋愛物語です。

私たちはどうしても、体に不自由を持った人のことを「そう言った人」という風に括って考えてしまいます。

それがいいも悪いもわかりませんが、そう言ったきらいがあるということです。

でも、逆にそれが相手を苦しませている時もあれば、そこで助けられている時もあるのでしょう。

相手のことを知った気になれば、「私の何をわかっているのか」と言われれば、何も言い返させない。

逆に知らなければ、無意識的に傷つけてしまう。

そうなると関わらないというのが1番の相手に対する思いやりだと感じてしまう。

これはもう、片方からの歩み寄りではなく、この本の2人のように同時に両方から歩み寄るからこそうまくいくんだろうなと感じます。

社会という環境の中の自分と社会、自分と相手、自分と自分。

自己嫌悪を繰り返す

誰かを完全に理解するなんてできません。

なぜなら、AさんはBさんではないし、Bさんも同じくAさんではないからです。

それぞれが自分のパーソナリティーを持っていて、誰にも分からない部分を奥底にしまっているのです。

その奥底に仕舞われたものを出すも出さないも自分次第。

相手に心を許せるのであればそれを互いに開示していく。

そうして信頼が出来上がっていく。

時には、相手の大事な場所を土足で入り込もうとしてしまうかもしれない。

でも、それは人と関わる以上仕方のないこと。

だから、常にそうなってしまった時に自己嫌悪をしながらも、相手を知っていく。

自己嫌悪は悪い言葉ではなく、前へ行こうと、理想を見つめるからこその言葉なんだろうなと感じました。

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