見出し画像

ミャンマーの歴史を辿ると問題は複雑だ

こんばんは。今日も数ある投稿の中で私の投稿をご覧いただきましてありがとうございます。

さて、ミャンマーシリーズの前回は非常に残酷な現実なので、読んだ方には不快感を与えた内容だったのではないかと思います。
ただ、目を背けようと思ってもこれが世界のある地域で起きている現実であるのも事実です。

この”ミャンマー”の建国に日本が大きく関わっているのはご存知の方も多いかと思います。ミャンマー(旧ビルマ)は英国の植民地になっていました。
実は植民地になる前にも長い歴史を持つ国です。この歴史を今回紐解きたいと思います。

これを読むと得られる教訓は民族間の戦いは解消すべきことでありますが、簡単には解消されない再認識させられると思います。

ミャンマーの地形

現在は国号がミャンマーとなったビルマの地は、東南アジア大陸部(インドシナ半島)の西端に位置し、北は中国、西はインド、東はタイに接しているそうです。国土の中心を南北にイラワディ川が流れ、その流域は豊かな農耕地帯だが、山岳部にはジャングルが広がっているそうです、

ミャンマーの先住民

ビルマ一族が移住する前には、このイラワディ―川(エーヤワディー川)の中流にはピュー人、下流にはモン人が先住民として文化を形成していました。

ピュー人は紀元前200年前から9世紀まで栄えていたそうです。ピュー族の言語はチベット・ビルマ語派に属すると考えられているようですが、言語は完全に解読されておらず考古学的発見と他民族が記した史料に基づいて語られています。
ミャンマー発の世界遺産リスト”ピュー古代遺跡群”で認定されたのでも有名なようです。この遺跡では世界で唯一とも言われている大変珍しい眼鏡をかけた大仏に会えるそうです。

モン人はベトナム人やクメール人と類似の言語を話し、このイラワディ―川やタイのチャオプラヤー川に居地を作り、タイでも王国を作りました。このモン人は早くからインドの影響を受けて、仏教を早くから信仰していたそうです。

ビルマ人は元々、中国の甘粛省(カンショクショウ)に住んでいたいそうです。中国では今はチベット人や蒙古人といった少数民族が住んでいた地区です。このビルマ人が8、9世紀頃からミャンマーの南に移り住み仏教を信仰していたそうです。

ビルマ人が統一国家を樹立し英国との闘いが始まるまで

パガン朝の設立

ビルマ人がピュー人やモン人を追い、統一国家パガン朝を建国します。イラワディ川流域の穀倉地帯を支配して安定した国力ともち、さらに下ビルマの門人から学んだ上座部仏教を篤く保護し、仏教寺院を建設します。しかし、仏教寺院建設にかかる費用は民衆生活を圧迫させます

元の襲来

 1287年に元の遠征がこの国に影響を与えて、事実上、パガン朝は滅亡ししてしまいます。元にビルマが従属する形で統治を許されます。
ただ、ビルマ人には全土を支配する力はなく、上ビルマにシャン人、下ビルマにはモン人らの勢力が強まり、ビルマは三分される形になります。

その後、パガン朝はそのシャン人によって滅ぼされ、シャン人はモンゴル軍を撃退して上ビルマに自立し、下ビルマのモン人はイラワディ川下流域のペグーを中心に新たな、ペグー朝を建てます。。

シャン人とは
シャン人は、インドシナ半島に広がっているタイ系諸族の1つで、タイ人のシャム人と同系の民族です。 一般にはミャンマーのシャン州の平地に住んでいるシャン人と呼ぶそうです。

ペグ―朝

モン人が国家を形成しパガン朝に続いて上座部仏教を保護し、都のペグーは河港都市としても栄えます。ただ、この時期はパガンにはシャン人が、タウングーにはビルマ人がそれぞれ分立しており、ビルマは分裂状態です。

タウングー朝

14世紀になるとビルマ人が有力となり、タウングー朝を創建し、イラワディ川下流のペグーを陥れてペグー朝を滅ぼし、上ビルマも平定してパガンで即位、パガン朝に続くビルマの統一を再現します。
タウングー朝はタイやラオスに進出、ビルマ領を広げます。
しかし、国内はビルマ人に対するモン人の反発も強く不安定です。16世紀にはイギリス、オランダが進出し通商を求めますがが、鎖国政策をとり、首都もペグーから内陸のアヴァに移します。首都だったペグーからビルマ人が去りモン人が反乱を起こしペグーをし、タウングー朝は滅亡します。

コンバウン朝

18世紀に入り、イラワディ川上流(上ビルマ)のビルマ人の中から現れた人物、アラウンパヤーがコンバウン朝を建てます。モン人を制圧して、ビルマ全土の統一に成功します。
これでパガン朝、タウングー朝と続き三度目のビルマ統一王朝となります。東隣のタイに侵攻し、アユタヤ朝を滅ぼしており、一方、清軍を撃退し、強大な勢力を持ちます。
イギリスの植民地化となっていたインドの国力の低下を好機と捉えて、インドとの国境地帯であるマニプール(その中心地がインパール)にも進出した。
しかしこれによってイギリスと衝突することとなります。

このように先住民であるモン人、ビルマ人、シャン人が領地をとって王朝を獲ったと思ったら取られてといった歴史が8世紀~9世紀繰り返されています。
そう考えると先住民問題や民族間の戦いは解消すべきことでありますが、簡単には解消されないことを歴史を辿ると感じることが出来ます。
今もミャンマーではロギンヒャ問題もありますし、お隣の中国のウイグル自治区の人権問題などもありますが、これらの問題は根深く全ての民族が
皆、問題なく幸せに生活していくというのは大変なんだと痛感しました。

日本はヤマト民族、アイヌ族、琉球の流れを汲む方といますが、民族数が少ないのと陸の国境が無いので、このような国境を多くの国と接し他民族の国家の大変さはなかなか簡単には理解するのは難しいと思いました。

今日の冒頭画像はAdobeStockから使用させていただきました。
ありがとうございます!

以下のサイトを参考に致しました。

本日も最後までお付き合いいただきありがとうございました。
また次回の記事で会いましょう!
皆様、今週も頑張っていきまっしょい。

#スキしてみて #人生 #未来志 #未来史 #noteのつづけ方 #自分にとって大切なこと #ミャンマー #民族問題 #”ピュー古代遺跡群 #モン人

この記事が参加している募集

noteのつづけ方

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?