間で起こること
いつかまた生みの苦しみでもがくことになる自分へ。
子どもたちへの贈り物の詩を書いていると「わたしがこの子から感じるものはもっと大きいのに、それを形にするとこんなにもしょぼくなってしまうのだなぁ」と痛みを覚えることがある。
いつまでも自分なりの「合格点」が超えられないと徹夜もするし、もう原型がわからなくなるほど何度も修正を重ねてしまう。
形にしなけりゃ、もっと夢見ていられたのになぁ。
でも、期日というものがあるおかげで、なんとか贈り物の形にして渡すことはやってこられた。
できあがったもの、渡したものは、一年間のうちに何度も人前で唱えられていく。そして、次第にメロディがつけられ、ウクレレやギターの演奏がつき、もうわたしが机上で書き上げたものとは別の何かになっていく。
だから、最初のうちは恥ずかしくても、だんだん平気になっていくものだよ。いつかはみんなのものになっていくから大丈夫。っていうのはこれまでも何度か書いてきた通り。
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それで、今回ぜひ書き残しておこうと思ったのは、「誰かのために書いている」ということは、もうそれだけで誰かとつくっていることになるんだよってこと。
どんなに自分がしょぼいと思っても、それは相手のことを思わないと出てこなかった表現だから。わたしとその人との間でしか生まれないもの。そういう意味で、わたしは自分の表現力のなさとは真摯に向き合っていくけれど、相手から引き出された何かについてまでジャッジする必要はない。
むしろ、勇気を持ってそこに迫っていくべき。そこで見聞きしたものを独り占めすることなく、相手のものにもなるように伝わる形にして届ける責任がある。
引き出されるものの深さが計り知れないものであっても、まずは肉体や時間という限りがあること、その限りをもって形にすることの意義を感じてみて。
わたしたちはそういう「限り」のある世界に生きているのだし、そこで出会えているということがもうとてつもなく意味深いのだから。
「限り」があることを痛みのまま終わらせないで。むしろそれを逆手にとって、喜びを生み出せるんだよっていう方向へ子どもたちを導いて。
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最近noteで「間で起こることを一緒に楽しみましょう」と書いたりするのにはこういう背景があります、というお話でした。
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