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波を数える(短編小説試し読み版)

昨年秋に刊行された、参加している文芸誌「空地」の第一号に寄せた短編小説の試し読み版です。
5月21日東京流通センターにて行われる文学フリマに第二号を刊行し、そこでバックナンバーも買えます。詳細は下です。

それはハイライトブルーのような夏だった。
その夏は僕に「薄い」という印象を思わせた。
そしてそれがどういったことなのか考えるにはあまりに暑かった。
僕はアパートに空調器具を持ち合わせていなかった。金銭もなかったし、その類の作り出す独特で近代的な空気が苦手だった。
僕は部屋中の窓を開けて、汗を吹き出させながらひたすらハイライトを吸い、十代の内に浴びるように読んだ文庫本を読み返した。昼は大抵蕎麦を茹でてビールを飲んだ。
夜もやはり特別なことがなければ蕎麦を茹でてビールを飲んだ。飲んだビールは直ぐに汗になってシャツを湿らせた。後に残るのはアルコールと少し重たい脳内だけだった。
そういう暮らしを孤独にこなしていると、自分自身が溶けて、アスファルトに落ち、そして広がっていく、そんな感覚を覚えることになった。
古い台所の蛇口から水がステンレスに一滴ずつ落ちていくようだった。
自分の存在がなくなり、社会と自分の境界が無くなっていく。
酔っ払うか本を読み終えるかしたら冷たくもない床の上で気絶したように汗だくで眠る。
蚊が僕の体液を吸い尽くしていく。深夜にだけ蝉が鳴く。耳鳴りのような音がずっと聞こえている。
薄い、僕はそれを何度も思った。

僕は二十代の半ばを迎えていた。
その夏は何をしていてもモラトリアムの終わりを感じた。
消費している時間は二十代の時間なのだ、というような思いは周囲を焦らせているように見えたし僕もその感情に多かれ少なかれ影響を受けざるを得なかった。
社会に対して強く個人であろうとしてもこの社会では時に大きな波のようなものが僕に迫ってきて僕を飲み込んでいってしまうのだろう、その実感はまだ消費している時間が十代だった頃から感じていることだった。
僕が孤独に、そしてひたむきに主体的であろうとしても、結局は僕の力の範囲を超えた濁流に流されていってしまう。
そこで流されていくのか、あるいは立ち止まろうともがき続けるか、それが生活の大きな課題に思えた。

俗な話だが、学生最後の夏を考えることは社会に入っていくこと、ありていに言えば就職を考えることを意味していた。
しかし大学の講座のようなものとそれにまつわる集団、行ったことも行こうとしたこともないから想像に過ぎないけれど、そこでは夏に来年の居場所が無いことはある種の敗北を意味しているようだった。
あるいはそんなことなど突然殺人事件に巻き込まれるほどに起こり得ないと彼らは考えていた。
僕にも知り合いじみたものはいて、彼らは何年も前から、あるいは大学に入った瞬間から内定のことばかり考えているようだった。
彼らは社会的ステータス、個人としての生きがい、結婚、そういった多くの秤で職種や企業を計量していた。高校に入った瞬間から大学を考える、そんな社会に慣れた彼らはそれを当然のように受け入れていた。
僕はそれに対して何も感情を抱かなかった。軽蔑するわけでも羨むわけでもなかった。言い訳がましいけれど怠惰でもなかった。やろうと思えば多くの学生が言うほどそこまで難しくもなくこなせることだろうと思っていた。
ただ、僕には僕のペースがあるのだ、としか思っていなかった。人生は最短距離で疾走するような生き方は僕に合っていなかった。      

僕は多くのいわゆる大人の慰めのような娯楽(下世話なもの。煙草、酒、セックス)を早いうちから知っていた一方で、大学には高校を卒業して何年か経ってから入った。
僕は人並みのことができるようになるまで人より少し遠回りしないといけないのだ、と僕は僕を納得させていた。
十代の傷つきやすい時期を過ごした後で、僕は自分自身にも他人にも、そして社会にもまるで関心が持てなくなっていた。
多くのことがどうでも良くなり多くのことを許せるようになった。
あらゆる物事に対する要求量が減ると、つまり理想を持たなくなると、日々は適当に本を読めてタバコが吸えてビールさえ飲めれば後はどうでもよくなった。

 僕は暇潰しのために市民プールでアルバイトをしていた。稼ぎも悪くなかったし条件も悪くなかった。何より開業前と終業後に自由に泳げる時間があるというのが魅力的だった。
僕は強い日差しの中で義務的にホイッスルを吹くか、あるいは更衣室やシャワー室を変な執着で掃除するかで時間を過ごした。
薄暗い隅に固まった便所の虫を駆除し、客が適当に捨てたゴミを分別した。泳ぐ事のできる二つの時間のことを考えながら。
市民プールでは流行の音楽やAMラジオが流れていたが、頭の中ではビーチ・ボーイズのペットサウンズが流れていた。頭から最後まで。夏だから当たり前だ。
僕はレコードが擦り切れるまでこのアルバムを聴いたし、出かけている時は頭の中で何度もこのアルバムを流した。それが素晴らしいアルバムにできる僕なりの接し方だった。

好きに泳げるその時間、僕は毎回クロールで一キロずつ泳いだ。合計二キロ。五十メートル五十秒のペース。ただ無駄のない綺麗なフォームで泳ぐことだけを考えた。
あのマイケル・フェルプスの泳ぎ方を何度も思い出した。手と足が調和したかのように動いて体が帆船のように気持ちよく水の中を進むと僕はあらゆる抑圧から自由になれた気がした。
アルバイトの制服は汗で塩を吹いていて薄く変色していた。青白かった肌は黒く焼けて薄皮が捲れていた。身体から余計な脂肪が落ちていったが、その夏に僕は蕎麦とビール以外何も口にしなかったから段々栄養失調のような身体になっていった。

僕はその夏の少しのささやかな時間をアジサイの小さなアパートで過ごした。
彼女について説明するのは難しいことではない。思い出せることが少ないからだ。
僕と彼女は中学校の同級生だった。何度か話したことがあるぐらいの親しくはない間柄だ。卒業してから一度も会っていなかったが偶然再会する機会があった。
それは特に僕達にとって運命じみたものを思わせるようなものではなかった。ただ街の食品店で彼女に話しかけられただけだ。魚の切り身が値引きされるような夜の時間だった。
彼女は当時の面影を残していた。素朴な顔つきは変わっていなかったが、年を重ねて一人の成熟した女性になっていた。彼女との再会は驚きだった。僕は大学に入って地元から遠く離れた地域に住んでいた。特に住む理由もない、何もない小さな住宅街。

小さな街だから彼女とはそれから街で何度か会った。それまでも何度もすれ違っていたのかもしれないが、彼女の近影を知らなかったのだから仕方がない。
彼女と何回か会って、何回か小さな会話を済ませたが、ある日彼女は話の終わりに、自分の部屋に来ないか、と言った。
僕は、構わない、とだけ言って彼女の家路に着いていった。
まだ梅雨前線のその影を残すような湿気が肌に纏わりつく、そんな時期だった。

(以下続く)


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