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時のないホテル(短編小説)

僕の参加している文芸誌「空地」が文学フリマ東京に出店します。そこのフリーペーパーに載っている小説です。是非5月21日東京流通センターにいらしてください。

春霞に煙る渋谷を背に、午前五時の冷たく湿った国道三号線を歩いている。
幾度となく朝まで眠れず、それにも慣れてしまったように思える。
それは、喪失、と似ている。
この東京での喪失は埋まることはなく、ただその喪失に慣れてしまったように思え、それが喪失を意味している。
六本木が見えてくる。この街では高層ビルを背に歩くことは高層ビルを目指して歩くことを意味している。夕方にも見える。今日が昨日なのか明日なのか、わからない。

彼女は緑色のレインコートを着ていて、スクランブル交差点の喫煙所の車道側、ガードレールにもたれかかり、銀紙に包まれたチョコレートを、一口、向かい合う僕に差し出す。
すぐ後ろをタクシーが駆け抜ける、少し溶けている、吸っている煙草の味に混ざる、

「ホテル・インソムニア(旅先の宿で眠れないこと)」

 と彼女は呟く。
雨か、ネオンか、排気ガスで、彼女はもう見えない。

何もかもが売られているこの街で、満たされない欲求が交差している、生まれた街と東京を隔てる江戸川を思い出す、向こう岸に行けないままなのに、電車に乗れば直ぐに来られてしまう、彼女の緑色のレインコートに全てを預けたくなる、彼女は存在しないのに。
彼女の存在が解決ではなく解消を意味していることを知りながら、僕は幾度となくホテルの電話ボックスでダイヤルを回そうとする。
思う。
もう、いいんだ、ここで書くことを書いたらシチリアへ行こう、シベリアでもいい、それが言葉遊びでもいい、いや、何も書かなくていい、ただゆっくり眠るためにそれが必要だったんだ、そのせいで眠れなくなっていても。

姿勢を正して、沈黙を貫く受話器の向こうに返事をする、

「僕が孤独じゃないと言うのは君の役目なんだよ」

返事がない。
しかし、向こうに届いたのだ、と思う。
それを信じることでしか僕たちは生きていけない。
ポケットでチョコレートの銀紙が崩れている。手に、こびりつく。


二十四時間営業のコンビニエンスに立ち寄り、コーヒーを買う。
外のガードレールを跨ぎ、車道を臨みながら、もたれかかる。
煙草に火をつけて、飲む。煙を吐く時に空を眺め、コーヒーを飲む時に地面を眺める。昇ってきた朝日がマンションを染める。アスファルトの照り返しが目を焼く。

運動服の男がジョギングをしている。
信号で止まり、次の信号で止まる。時間と距離を測って計算した。約時速十キロ。ゆるやかに、確実に、彼の身体は汗をかき、変化している。
それは開発の終わらないこの街に似ている、僕も、あるいは、逃れられない、と気づく。

煙草をガードレールで揉み消す。火種が飛び散る。強い風が吹き、歩いてきた側に目をやると、霞は晴れないままでいるが、それも確実な朝が来れば晴れるだろう。

眠れないこと自体は不幸ではない、不幸だと思い込むところから不眠は加速する、あるいはそれが不幸だったとしても、それを受け入れるところから始まる、そう結論づける。



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