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「感情」と「事実」と「未来設計」の矢印の繋げ方が下手

現在、大学4年の夏休み。

恥とプライドも捨てて、これまでの自分の大学生活の薄っぺらさに向き合う。

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私の人生は、向上心や努力という切り口で見ると、「〜高3」と「大1〜」の2つに分けられる。

超努力期の「〜高3」と、無心の「大1〜」。

高3まで我ながら頑張りすぎた自負があってしまったから、大学では頭空っぽでで思うままに生きよ〜〜!!!と思ってしまった。これが全ての元凶。

今なら、「高3まで頑張ってきたこと」「大学で思いのまま楽して生きること」は順接でつながる事項でないことが嫌という程わかる。

でも、当時(高校卒業・大学入学時)は当時で、高校時代まで走り抜けてきて受験後に甚だしく体調を崩したり、真面目に生きすぎて(部活と勉強漬けの日々)高校生でしかできない遊びが足りてないことに気が付いたりして、「あぁ、私は第一志望に合格はしたけど、その分得られなかったことがたくさんあるんだ」と思っていた。

いつだって、「あれもこれも!」は無理だ、ということに尽きるのだろうけど、私はやっぱり二兎を追って二兎を得ようという謎の自信と、自分という人間への謎の過信があった。(そんなものは今の22歳の自分はとっくにへし折られたけど。)

そんなこんなで、入学してからの2年間は、大学生の定番バイトをやり、それなりに楽しみ、サークルも受験生時代から憧れていた大学で一番大きな組織に入り、友達とも遊び、と充実していた。資格とかの勉強はしてなかったけど、そんなことは今じゃなくたって良いって思ってた。目標はなかった。ただただ、その日その日が楽しければ、「いつか」のことしか考えていなかった受験生時代に報いると思っていた。

就活を終えた大学4年の夏に振り返って思うことは、「いつか」を夢見て日常を犠牲にしていた高校時代その日その日の日常を楽しむことで毎日を消費していた大学時代はどっちも大して素晴らしくないということ。

気がつくのが遅すぎる。

本当に自分がアホすぎて悲しくなる。感情と事実と未来設計の矢印の繋げ方が引くほど下手ということ

でも、ここまで語っていてなんだけど、結局私は何をやれば自分の中の最大の大学生活が送れていたのかも正直わからない。わからない時点で私は薄っぺらい人間なのである。

がむしゃらにただただ頑張ることはできるけど、何がしたい、どう変わりたい、どう向上していきたいとかの感情がなさすぎて、中身がただただ空っぽ。がむしゃらに努力できるという側面で全てをカバーしてきたことに22歳目前でようやく気がついた。

そして、この気づきが、就活の自己分析で「自分のことが全く理解できない」という大惨事にも繋がったと納得である。

じゃあ、それなら、この薄っぺらい大学4年間をここで食い止めるために私は何をするべきか?何が出来るのか?これを考えなきゃ、堂々巡りの人生になってしまう。

正しく矢印を繋げながら、もっと地に足つけた将来を現実物語として描いていけるように時間を使っていかなきゃならない。

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