「あなたは恵まれている」わけがない

 100分de名著のフランツ・カフカ「変身」を見ている。第三回まで視聴済みなのだが、とにかくこのカフカという作者の考えに共感を持ちすぎて見ているとどうも辟易する。
 およそ私の言い分は「変身」内で表されているので、ここでわざわざ書くことでもないのだろうが、それでもわざわざ書くことにする。

 他者にとっての「恵まれている」が一体どういう状況を指すのか私はわからない。
 以前も書いたことだが、私は生きてきた中で「生まれてきてよかったー!」などと考えたことは現在まで一度も無い。同時に「今まで生きてきてよかったー!」と思ったことも無い。なんなら「生まれてきたくなかった」「なぜまだ生きているのか」と思うことならありとあらゆる場面で思った。私を作った両親には悪いが、私を生み育ててほしくなどなかったと、三十年生きた今でも考える。
 だがそう考えたとしても私は表面をまっとうに作ってしまったので、自殺もしないで真面目に生き、金を稼いで暮らしている。仕事があり、友人がいて、趣味を持ち、だが人生全体を通して見ればこれといって幸福さは感じない。もちろん不幸でもない。
 私は、私自身を「恵まれている」と感じることはほとんどないし、「恵まれていない」とも感じない。

 カフカの「変身」を知り、カフカ自身を知れば知るほど、私はカフカに自身を投影してしまう。カフカはなんというか、そう、条件のいい家に生まれた。貧困層の多いユダヤ人ではあったが父親が事業に成功して、裕福な暮らしをして、大学を出て官僚になった。誰もが羨む絵に描いたようなエリートコースである。
 だがカフカ自身はこれに幸福さをそこまで見出していなかったのだと、番組内では語られていた。
 そして彼は結局、苦悩の中で「変身」という小説を書いた。
 ものすごく古いインターネット用語を持ち出すと、この小説はまさしく「おまおれ」小説だった。これに共感できない、これを理解できない人間が果たしているのか、私には想像ができない。

 裕福であることがイコール恵まれていることに直結しないのだと、改めて感じた。そして現在の私もよくそれを実感する。
 時折、高齢者の方に「あなたは恵まれた時代を生きている」と言われる。これを聞かされるたびに思うのだが、自身と他人の不幸を比較して、己の不幸を押し付けないでほしい。とにかく迷惑だ。
 恵まれているという状況は人それぞれで違い、また押し付け合うものではない。世の中にはありとあらゆる状況が溢れかえっていて、一個人の考えで何もかもを語れるわけもないのだ。
 この言葉の最も卑怯なところは、「羨み」を持って言われることだ。
 そして面白いことに、発するのは必ず私の身内以外であり、そして私を深く知らない他人ばかりである。私の境遇や思想を知らず、私という人間の浅い部分を見ただけの他人が、この言葉を発する。
 だから私は曖昧な笑顔をするしかできない。そんなわけないから口を閉じろなどと暴言を吐けるはずもないが、言いたくてたまらなくなる。

 何を持ってして恵まれていると感じるのだろう。
 少なくとも、私はこの無意味な思考を持っている限り、恵まれない。