理由のない長生き

 これはおそらく人並みよりややネガティブで、不幸ではないがこれといって幸福でもない人生を過ごしてきた私の、長年の疑問なのだが、人間ってどうしてそんなに長生きをしたがるのだろうか?
 生命の最大の目的(と予想されるもの)は、種の存続と繁栄だと学者は言うが、あいにく私にはどちらの欲求も欠如している。欠如、というと若干違うのかもしれない。どちらかというと乏しい、だろうか。子どもを持ちたくないのはもちろんだし、子どもを作らないまでも家族が欲しいという、そういう欲求も無い。
 こうなると、私は「最大の目的」とやらをまず失う。
 次に来るのは「なぜ生きているのか?」という疑問だが、人によっては人生の目標があり、それを達成するために生きているという人もいるだろう。家族を作らないという、生命の本能に反した選択をしたとしても、ここで自ら目標を掲げれば、生きている甲斐というものができるのかもしれない。たぶん。私にはそれも無いので、実際どうなのかわからない。
 あえて決めるのなら、せいぜい「美味しいものを食べる」くらいしか思いつかない。これもこれで立派な目標なのだろうが、ではこれに生き甲斐が見出だせるかというとただ首をひねるばかりだ。

 世の中は今、長寿がふつうになってきている。
 百歳を超えることもさほど珍しくもなくなった。
 医療の目覚ましい発達は、本当に素晴らしいと思うが、私の正直な気持ちは「困ったことになった」、だ。なにせ、上記のとおり生き甲斐が無いので百歳まで生きていたところで、やることもないしやりたいこともない。
 生きていればいいことがある。やりたいことも見つかる。
 などという意見は、全て希望であり、確定事項ではない。あるかもしれないという不確かな希望にしがみついて一世紀も生きていたいかと、そんなことはないのだ。

 世の中の高齢者は、日々いったい何をして過ごしているのか疑問で仕方ないのだ。今、私はまだ四十にもならない年齢だが、すでにやることがない。暇つぶしでソーシャルゲームをやったり、目についたニュースを少しだけ調べたり、気乗りしない仕事に行ったりしている。
 日々の中に「絶対やりたいこと」がひとつも存在しない。
 うーん困った。
 こうなると、本当に「なぜ生きているんだろう」という気持ちになるのだが、かといって死んでしまうと親戚に迷惑がかかるし、自発的に死ぬのはとても難しいことだ。

 おまけに私はいわゆる貧困層に当てはまるので、とにかく余計に使える金が無い。それで余計に「やれることがない」ので、もうお手上げ状態だ。娯楽につぎ込める金というのは限られているので、生き甲斐になりそうなものに着手しようとしても今後それにどれだけ金をかけられるか考えるともう嫌になる。
 じゃあ富裕層を目指して娯楽に使えるだけの金を確保すればいいのでは? となるが、正直な意見として「そこまでやりたくない」のだ。なんて面倒なやつなのだろう。

 まとめると、私が長生きを別にしたくない理由は以下の通りになる。
 1・子孫を残したいと考えていない
 2・子孫繁栄の代替となる生き甲斐=人生の目標がない
 3・不確かな希望にすがりついてまで生き甲斐を見つけたくない
 4・金持ちになってまで生き甲斐を見つけたくない

 ここまで来ると、私が存在することで余計な資源が消費されているんだから、とっとと退場したほうがいいよなあと漠然と考えるのだ。
 風邪になって病院へ行くときに、「長生きしたいわけじゃないのになあ」と虚無感を抱くが、仕事に支障が出るので大人しく診察してもらって薬を飲んでいる。

 他のひとは、何を見て、どう考えて「長生き」という選択をしているのだろう。逆に、私と同じことを考えながら病院へ行く人はいるのだろうか。
 ちなみに何度か周囲の友人にこの話しをしたが、友人らには変な顔をされた。決して少数派とは思っていないのだが、運が悪かったみたいだ。