半端な平等がもたらす不幸

 はじめに断っておくが、これは平等を否定する記事ではない。
 ただ、現在の私が思う「世間」で広がりつつある「平等」が、本当に完全で完ぺきな正義なのだろうかと感じる場面について書き留めておきたいのだ。
 私が誰かに正確に習ったという内容ではなく、記事の全ては私の主観的な意見である。私の考えが間違っている可能性も大いにあるだろう。もしあなたがこの記事を読んでくれるのであれば、これを必ず理解してから読んでほしい。

 今、日本の社会は男女平等を目指して努力している。職場でも男女平等に加え、年功序列の撤廃による能力評価など、誰かをひいきしてきた社会を変えようと動いている人がいる。それ自体は、おそらく良いことだ。
 私はまさにそういった風潮の中で育ってきた。ざっくりまとめると、「不当な扱いに泣き寝入りしてはならない」だ。これは今まで泣き寝入りしてきた誰かに希望を与える可能性の言葉であったはずだ。
 だが、私にはこれが「強制力」や「威圧」に感じられた。

 繰り返すようだが、今まさに世間ではあらゆる格差をなくそうとしている。格差がないのは良いことなのだろうが、私はこの変化の真っ只中に生まれてしまったことをとても不幸に思っている。
 当たり前だが私の生きる世界はセーブデータを消してはじめからを選べるゲームではない。よく言われるやり直し=リセットのきかない世界だ。そのため今を生きる人々は、いやおうなく変化の渦に飲み込まれる。
 変わっていくことが大事なのは確かだ。
 変わったあとのことを考えるのも大事だ。
 じゃあ、今まで生きていた人たちに対して、何もしなくてもよいのか? 私は間違いなくそうではないと思うのだ。……もしここで「何もしなくていいのが当然」などと言われたら私は「なんて残酷なことを言うんだ」と結構まじめに絶望する。

 これまでの歴史、社会を形勢してきたのは今の高齢者だ。その方法がどうあれ、その事実は変わりなく、決して揺るがない。全員がかつて私と同じ三十代であり、懸命に生きてきた。

 私は「定年後再雇用」される方々に接することが非常に多い。なぜなら「人生100年時代」だからだ。
 これはずっと思っていたことなのだが、国として、五十歳あたりで三回目の義務教育を設けたほうがいいのではないだろうか? 勘違いしてほしくないのは、五十歳の人々をバカにしているつもりは全くない。ここで行う教育は、若年層や現在の社会思想についてだ。
 再雇用された彼らは一様に、メディアの発する「今どきの職場」に戸惑っている。自分たちが過ごしていた職場とは違う環境で働くことを余儀なくされている。なぜなら変化を求める人々により、あらゆる改革がされているからだ。
 だというのに、高齢者へ対するケアというのは万全のようには思えない。研修制度云々だけではなく、高齢者本人たちへの意識改革も、だ。

 私もそうだが、常に最新の情報を追えるようなエネルギーはない。それは年齢を重ねるごとに特に顕著になっていく。新しいことを学び、考え、理解するなど、到底できない。
 だから世代間の格差がものすごく大きい。
 男女平等を叫ぶのであれば、老若平等も考えるべきなのではないだろうか? そのためには、一度互いへの考えや認識を整理したり、学んだり理解する必要があるんじゃないだろうか。
 世代間の歩み寄りができないと言うのであれば、男女平等など叶わないと私は思う。男女平等というのに高齢者が若年者を、若年者が高齢者を互いに尊重しあえないなんてとても矛盾しているし、むなしい。

 当然、私の考えは甘っちょろいだろう。
 義務教育が~と言うが、実現するためには法律や予算やその他私には想像もできないほどの労力があるはずだ。所詮、これは理想論で夢物語だ。けれども今、実際に社会で生きている人間として抱く意見のひとつなのだ。
 変化の途中にある今、私は再雇用された人々との間で発生する齟齬に触れてとても苦しんでいる。彼らには彼らの「今までこうしてきた」という実績からのプライドがあり、それらをリセットすることなどできないし、私がそれを貶めたり否定することもできない。だが私にも彼らに及ばずとも同じような「こうしてきた」がある。
 老若に限らず同じような事例はあるかもしれないが、三十代が七十代に「今はこうしているので…」というのがどれほど困難か、どうか想像してほしい。

 生まれてくるならとっくに変化が終わった、平坦な社会がよかったとしみじみ思うのだ。