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ソウルフィルド・シャングリラ 第五章(1)

承前 目次

第五章 天使は舞い、都市は堕ちる Azrael in Azure


西暦2199年7月8日午前4時00分
澄崎市南西ブロック海面下居住区内、第二階層〝護留のねぐら〟

 暗い円形の部屋。床は青白く微発光し、虫の羽ばたきのような低音が流れている。
 ああ、と悠理は気付く。これはいつもの悪夢だと。気付いた瞬間にはもう、十字型の拘束台に縛りつけられていた。
 正面には液体で満たされたガラスのシリンダー。
 中にはボロボロの少女。
 眞由美。
 夢の中ですら、涙は出ない。
 五年前は、もう一人の私、いや――〝本物〟の悠理、『Azrael-01』が私を眠らせてくれた。だが彼女も消え、更には夢の中でどうやって眠ればいいのか悠理には分からない。だからいつもこの悪夢は最後まできっちり見ることになる。
 眞由美が首を持ち上げる。紅い瞳と瞳が交差し、眞由美が唇を開く。悠理は強く目を閉じる。そうすれば目の前の景色を消しされると信じる幼子のように。
 しかし流れ出てきたのは、いつものような救助の哀願と殺害の懇願ではなかった。
「悠理様」
 液体とガラスに隔てられて決して届くはずのない声を悠理は聴く。
「――え?」
 戒めが解け、床に足がつく――動ける。
 悠理はシリンダーに駆け寄った。
 眞由美は――優しい顔のままだった。苦しみも呪詛もない、楽園の住人のように穏やかな表情。
「悠理様――すみませんでした」
「な……」
 悠理は震える声を絞り出す。
「なんで眞由美が、謝るの?」
 私のせいで。不用意な一言が。あなたを殺したようなものなのに。
 鼻の奥がツンとする。それでも涙は流さない。
 私はもう眞由美と同じ年齢で――言葉を護り、約束を留めることができるということを見せるんだから。
「母と、昔から決めていたんです。悠理様が〝役目〟に目覚めるのを、できるだけ先延ばそうと。人として少しでも長く生きてもらおうと」
 この夢の直前まで見ていた幻。そこでは引瀬由美子も同じことを考えていた。
「母は贖罪の気持ちも込めていたようでしたが――私はただ純粋に、悠理、あなたを護りたかった」
「眞由美は――眞由美はいつだって私を助けてくれたし、護ってくれたよ! むしろ、私がそこまでしてくれた眞由美を護れなかった……」
「でもその護ろうという意志のせいで――逆にこのような事態になって、悠理を傷つけた」
「でもその護ろうという意志のおかげで――私はその後も生きられた」
 自殺を考えたことは何度もある。その度に思い起こしたのが、『強く生きてください』という眞由美の言葉だった。
「そうだったんですか。良かった、それだけが気になっていたんです」
 眞由美はにっこりと笑った。
 いつの間にか周囲の風景は変わっていた。壁いっぱいに澄崎市の景色が広がり、ホログラムの御使いがあちこちで喇叭を吹く、悠理の部屋だ。眞由美は、メイド服。悠理も昔の服装に戻り、ベッドに腰掛けていた。
「そうだよ。だから眞由美、あなたにはこれだけは伝えたかった」
『ありがとう』
 お互いの声が、綺麗に重なった。二人は顔を見合わせて、クスクスと笑った。
「これはさっきまで見ていた幻と一緒なのかな。会話できてるから、違うような気もするけど」
「いいえ、残念ながらただの夢幻〈ゆめまぼろし〉です。もちろん阿頼耶識層からのデータの流入なども関係していますけれどね」
「そうなんだ。じゃあいつか覚めちゃうんだね……ずっとお話していたいけれど」
「今の悠理は、もう私の手からは離れた大人ですから。待たせてる人もいるでしょう? 早く目覚めないと、大変なことになりますよ」
「大変なこと?」
「ええ、大変なことです」
 そう言って、眞由美はいたずらっぽく微笑み、悠理の服を指差して――

      †

「ぁふ? くしゅん!」
 目覚めと同時にくしゃみが出た。寒い。護留のねぐらにある唯一の防寒具が今悠理の上に掛けられている毛羽立った毛布で、ここにきてからはずっと悠理だけが使っている。ほぼ匂いというものが存在しない環境で暮らしてきた悠理は最初の頃は洗われても微かに残っていた護留の匂いにドギマギしていたが、今では完全に自分の体臭で上書きしてしまい、唯一公社に置いてきて後悔しているお気に入りの枕の次くらいには既に愛着が湧いていた。その毛布を首元まで引っ張り上げようとして気づく。
「え?」
 白い身体にうっすらと鳥肌が立っている。
 全裸だった。
「は?」
 思わず見直す。
 15歳にしては慎ましやかな胸。成長しないのはきっと恐らく職場環境のストレスのせい絶対そう。ここにきてからはバストアップ体操をしていないが一週間サボったくらいならまだ大丈夫だよね? 胸は少し残念だがボディラインには自信があり、腰のくびれから太腿、足のつま先にかけての流線は航空力学的優美さを感じるほど滑らかであり、ムダ毛無し、シミなしで我ながらうっとりしてしまうが自分にはナルシストの気があるのだろうか。
 見直しても、全裸のままだった。
「え、ええええええ!?」
 毛布で急いで胸元を隠す。そこにちょうどキッチンから濡れタオルを持ってきた護留が戻ってきた。
「起きたのか」
 護留は悠理を見て、安堵の吐息を漏らす。
「少し待ってろ、今果物の缶詰でも持ってくるから」
「いえ、あのですね」
「どうした、果物も食べるのが辛いならまだ少し寝ておくか? でも何か食べた方がいいと思うぞ。自分じゃ分からないかもしれないが君は大分消耗している」
「あ、でしたら白桃の缶詰があったはずですから、それをいただけますか」
「分かった」
「――そうじゃなくてですね! なんで私が裸になってるんですか!」
「毛布は掛けておいたはずだが」
「そういう問題ではなくてですね!」
「あのな、君はさっき幻を見てる最中に、心停止寸前までいったんだぞ」
「え……?」
「魂魄に過負荷が掛かったからだろうな。途中で気付けなかった僕も悪かった。幻が終わったら心拍数は回復したが――服を脱がせたのは寝汗を拭くためだ」
「そ、そうだったんですか……何度もご迷惑かけて、すみません」
「謝らなくていい。幻を見たのは僕の願いでもあるんだから、半分はこちらの責任だ。それに体を拭くのは二度目だから慣れてるし」
「――二度目?」
「初日にここに来た時、血や埃塗れだったからな。いくら声をかけても揺すっても起きないから、身体を僕が拭いた」
 さらりと言ってのける護留に対し、悠理は涙目になって顔を真っ赤にして口をパクパクとさせる。
 まさかこんなことで泣かないという誓いを破ることになるとは――確かに、大変なことになった。
「いつまでもそのままだと風邪引くぞ。缶詰食べる前にまずは服を着ろ――うわ!」
 悠理の投げつけた毛布が護留の顔面に直撃した。
「着ますから! あっち向いててください!」

「もうこれ以上、君と一緒に幻を見るのは止めにしようと思う」
 悠理が食べた缶詰を片付けながら、護留が言った。
「そんな――どうしてですか。まだ護留さんの過去が判明してないのに」
「でも君の過去は分かっただろ。プロジェクト・アズライールのことについても」
「ええ、ですから次は護留さんの――」
「これ以上君に倒れられても困るからな」
「……倒れたのは私の覚悟が足りなかったからかも知れません。だから次は必ず――」
「幻の中で見たことを忘れたのか? 君が――少なくとも今僕と話している〝君〟が消えたりしたらこの街は消え去るんだぞ。あるいは天宮は、僕たちがこうやって過去を見て君が倒れるのを目的にしていたのかも知れない」
「でも、私の中のあの子、『Azrael-01』はもう五年以上反応がないですし――それに護留さん一人でどうやって幻を見るんですか?」
「前は一人で見ていた」
「でも、それには人の残留思念や擬魂が必要じゃないですか」
「天宮以外にも魂魄制御技術に通じた企業は、少ないが一応ある。そこと――交渉をする」
「――私を材料に、ですか?」
「そうだ。君の保護の交渉だ。君は――君を想う人たちから生きるのを期待されている。
 だったら、とことんまで足掻き、強く生き続けろ」
 護留の言葉に、悠理ははっとして――やがてこっくりと頷いた。
「分かりました。でも一つ条件があります」
「条件?」
「はい。護留さん、あなたも一緒に保護されることです」
「いや、それは……」
「じゃないと私はここからずっと動きませんから!」
 ふんすと鼻息を荒くする悠理を見て、護留は渋々頷く。
「分かったよ……でも僕も一緒となると交渉の難度が上がると思うぞ」
「その時は――護留さんもここにずっといればいいじゃないですか」
 唐突に悠理の言葉に、異を唱える男の声が上がった。

「それは困りますね、『お嬢様』」

 護留が弾かれたように立ち上がり、声の方角にナイフを投擲する。だがナイフは声の主に届く寸前、傍らに控えていた黒い仮面に黒いマント、黒色の貫頭衣の存在――グリムリーパーが振るった白鎌〈リヴサイズ〉に軌道を逸らされた。
 護留は動き続ける。まずは悠理の横たわるソファをひっくり返す。「きゃあ!?」悲鳴は無視。悠理がソファで遮蔽されたのを確認すると、ひっくり返した下に存在する武器ラックからオートマチック拳銃を取り出す。セーフティを解除し、グリムリーパーに向け全弾を叩き込む。マントがはためき、銃弾は全弾絡め取られた。
 四方に積まれているコンテナ群が、大音響と共に破砕、生じた穴からグリムリーパーが一体ずつ姿を表した。
 くそ、センサーには反応がなかったのに――!
 ギリリと下唇を強く噛む護留をニヤニヤと眺め、声の主――執事服などという場違いにも程がある格好をした男が言った。
「敷設されていたセンサーやトラップ類はほぼ市警軍の横流し品――いくらか改造が施されてはいたが――『自分たちで作った』ものに引っかかる間抜けはいないだろ? 負死者などとご大層な呼ばれ方をしている割には、がっかりだよ」
「――少し前に、似たようなことをほざいた負け犬がいたよ。そいつがどうなったか知りたいか?」
 男の挑発で逆に冷静さを取り戻した護留は、手の平から白銀の刃を生やし、構える。
 だが男はヘラヘラと笑うばかりで護留のことは見ていない。その視線はひっくり返ったソファに固定されている。
「お嬢様、お迎えに上がりましたよ」
 悠理はソファの下でその声を聞く。聞き慣れたその慇懃無礼なその声の主は間違えようはずもない、
「時臥峰!?」
「左様です。前当主のご命令で、家出娘を連れ帰りに来ました」
「――ならば当代天宮家の主として命じます。そのまま帰りなさい」
「今この場で何の後ろ盾もない小娘の命令を何故私が聞く必要が?」
「後ろ盾なら、存在します。そこにいる、引瀬護留が私の矛であり盾です」
 スプリングがないかわりにソファの内側にはナノカーボンファイバーの防弾布が貼り付けてあり、ライフルの狙撃すら防ぐ。ひとまず悠理にはそこに居てもらう。
 一番の脅威は勿論グリムリーパーだ。護留は紹介屋の仕事で一回だけこの死神とやりあったことがある。あの時は1体相手に痛み分けだった。それが5体。全力でやれば3体までは行動不能に追い込める。それ以上は悠理を守りながらだと厳しいだろう。センサー類の情報が届く端末にはいざという時のためにこの部屋を物理的に埋め立てる機能もあるが――護留はともかく悠理が無事でいられる保証がない。ないが、使わざるを得ないかもしれない。
 悠理の返事を聞いて、時臥峰が護留を見る。舐め回すような視線を這わす。
「ふぅん。そうか、負死者とデキてたのか」
 無表情。だが次第に表情筋が奇妙に歪み始める。異状すぎて、それが怒りの顔だと気づくのに護留は一拍遅れた。
「はあ。じゃあもう犯ったわけかお前、悠理と」
「何を言って――」
「っとーにマセガキがよお!!! こちとら公社にいる間に何度あのメスガキ犯すチャンスがあったのに我慢したと思ってんだ!? ぶっ殺すぞクソが!!!」
 唐突に怒鳴り散らすと、一気に落ち着きを取り戻し、
「まあでもお前は死なないんだよな。だからこういうのを用意してきた」
 4体のグリムリーパーが進み出て、それぞれ背負っていた荷物を下ろした。
 4つの、棺桶。
「悪趣味だろ? 良く言われる」
 時臥峰は楽しそうに言い、物凄い勢いで棺桶を蹴りつける。悲鳴、怯える声、呻き声。死体ではなく、生きた人間が入っている。
「出てこいお前ら。オヒメサマに対してきっちりご奉公しろ」
 啜り泣く声と共に、棺桶が内側から開く。護留は目を見開いた。何故なら、出てきたのは時臥峰と同じくらい場違いな存在だったからだ。
「――メイド?」
 時代がかったフリルのついたエプロンドレス。頭にはホワイトブリム。まごうことなきメイドだ。それも4人。全員酷く顔を腫らしていて、怯えきっていた。
 思わず漏らした護留の声に、悠理が意外なほど強く反応した。
「メイド? その声は、まさか」
「よかったよかった。『そんな端女知りません』とでも言われたら盛大に滑るところだったからな」
 時臥峰は満足そうに頷く。
「悠理サマ、あんたのお付きの侍女たちですよ。負死者が動いたら一人殺す。ご当主ドノが出てこない場合は10秒ごとに一人殺す。ハイ用意スタート」
「なっ――」
「動かないでください、護留さん!」
 あまりの常軌を逸した言動に、まずは時臥峰を肉塊に変えるべく足に力を込めた護留は、悠理の制止で辛うじてその場にとどまった。
 ソファーの下から悠理が、這い出してくる。
「――今更、私を呼び戻してどうするつもりなのですか、父は」
 決まっている。今の悠理――仮想人格を消し去りプロジェクト・アズライールを遂行するのだろう。だがそれには『Azrael-02』たる護留も必要なはずだ。だから、時臥峰に向かって行く悠理は護留の側を通る時に、逃げて、とだけ言った。
 ――クソっ! 悠理を置いて逃げるなんて、今更そんなことは――だがそれが一番天宮理生の企みを頓挫させる可能性が高い選択肢だ。
 ……母さんに続いて、悠理までも連れ去られてしまっていいのか?
 良くないに決まっている。
 護留が目の前を通り過ぎる悠理の肩を掴んだ、その時。
「ああ、何か勘違いしてらっしゃいますねお嬢様」
 パンパンパンパン。
 4発の銃声。
「帰ると言っても、無言の帰宅というやつなんですよ」
 人質だったはずの、悠理のお付きの侍女達が構える銃口から発した音だ。
 軽い音とは裏腹に、重い石を立て続けに投げつけられたようにガクガクと悠理は痙攣し、
「ゆう、り?」
 ガツン。
 硬い音を立て、床に上半身を捻った格好で倒れ伏す姿は、操糸の切れた人形のようにも、遊び終わった後そのまま放り出されたあやとり糸のようにも見えた。
 抱き起こす。抱き締める。
 反応がない。血が温かい。

 天宮悠理は、死んだ。

(続く)

PS5積み立て資金になります