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沖縄は怒っている

2022年10月30日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
イザヤ書57章18~19節(旧約聖書・新共同訳p.1156、聖書協会共同訳p.1141)
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最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。

▼イザヤ書57章18−19節

私は彼の道を見た。
私は彼を癒やし、導き
慰めをもって彼とその悲しむ人々に報い
唇に賛美の実りを創造しよう。
遠くにいる人にも近くにいる人にも
  平和、平和があるように。
私は彼を癒そうーー主は言われる。

▼基地の間に住んでいる

 先日沖縄に3泊4日で行ってきました。遊びに行ったのではなく、1945年の敗戦直前にあった沖縄戦の現実と現在の米軍基地の問題について、少しでも直接見聞きして肌で感じたいと思ったからです。
 最初に、とっても残念なことのご報告ですが、3泊4日のうち2日は「不屈」という抗議船(辺野古の新しい米軍基地に抗議するために出される船。全国的に有名)には、天候が悪いために海に出ることができず、一緒に乗せてもらうことができませんでした。ですからこれは宿題ということで、「また沖縄に来なさいということですよ」と言われて帰ってきました。
 さて、今回の旅行、3泊4日で沖縄の問題を知れるだけ知りたいと思っていってきましたが、結果から言うと、とても3泊4日では把握することのできないほど問題だらけ、しかも非常に重い問題だらけということだけがわかって帰ってきたような感じでした。
 普段、自分は沖縄の味方だと思ってはいましたが、実際のところ、今まで自分は何も知らなかったに等しいということだけはわかって帰ってきたような感覚を覚えました。
 3泊4日の間、ずっと沖縄の南部の南条市にある佐敷教会の金井創牧師に案内してもらいました。金井牧師は、先程も言いましたように、「辺野古」という地域の、サンゴ礁を破壊して作られつつある新しい米軍基地、それも沖縄の県民投票で建設反対の民意が示されたにも関わらず、しかもアメリカの施設にも関わらず日本の税金で造られようとしている新しい基地、それに建設に反対して抗議する、抗議船「不屈」の船長として全国に知られている方です。そんな人を3泊4日もチャーターしたのですから、ものすごく贅沢な旅です。濃密なツアーでした。しかし、それでも3泊4日ではとても把握しきれない現状だったんです。
 驚いたのは、車に乗せてもらってあちこちに動き回りましたけど、もう本当にどこにでも米軍用地がある。「あそこもそうです」「ここもそうです」。本当にあちらにもこちらにもある。大きな基地だけでないんです。細々とあちこちに米軍の基地がある。まるで米軍の用地の間に市民が住んでいるのではないかと思われるほどです。

▼米軍基地の害

 米軍基地と隣り合わせに生活しているとどんな害があるのか。
 まず、ヘリコプターやオスプレイが墜落してきます。少し前、2004年に沖縄国際大学にヘリが墜落してきた事件は、沖縄に特に関心を持っていなかった頃の私でも記憶しているくらい恐ろしい事件でした。大学で学生が勉強している昼の日中にヘリが落ちてきて炎上するんです。
 しかもそういう事故が起こると、現場は米軍によって封鎖されて、事故の原因などの究明などもできなくなってしまう。米軍は治外法権なのですね。日米地位協定という日本とアメリカの取り決めのために、日本はアメリカに対して何の主権も主張することができないんですね。
 最近ですと、保育園の屋根にヘリの部品が落ちてきて、大問題になってこともありました(2017年)。また、小学校の校庭にヘリの扉の一部が落ちてきて、間一髪で子どもを直撃するところだったという事態もありました(2017年)。
 基地の滑走路から戦闘機が発進する時の騒音は、基地の近所にある小学校(普天間第二小学校)の授業が中断するほどだと言います。二重ガラスの窓になっていても、そうなんだそうです。戦闘機が離陸するときは先生の声が聞こえませんから、授業は中断せざるを得ません。そうやって頻繁に中断する時間を累積すると、年間で10時間くらいは授業時間が削られていると言います。
 基地から出てきて飲みに来た海兵隊員が酔って騒ぎを起こすということもありますし、今までにも海兵隊員や軍関係者が女性を襲った上に殺してしまったという事件が度々起こってきています。子どもまでそういう被害に遭うことがあるんです。
 そして最近では、基地から発がん性の高い有毒な物質(たぶん消火剤から出ているのだと言われていますけれども)有機フッ素化合物というものが水道や河川に流れていて、基地周辺の人の血液の中に、その物質の濃度が高いということもつい最近報道されていました。
 そういう危険と被害を被りながら沖縄の人たちは暮らしていますから、沖縄の人たちにとっては、基地が存続するのか、それとも移転して土地が返還されるのかは、一大事なわけです。毎日の生活に関わる一大事ですね。

▼米軍がいて良いことがあるか

 そこで、よく聞くのが、米軍がいるから街が潤っているんだろうとか、それで生活している人がたくさんいるから、沖縄なら基地が出て行ったら困るだろうと言う人がいるが、それは全く間違いみたいです。
 実際に粘り強い、工夫に工夫を重ねた運動を通して、基地から土地を返還されたところもあり、そういうところは再開発されて、新しい街ができて、経済的に発展して、人が集まり、雇用も生まれているところもある。リゾート地として復活しているところも実際にあります。
 だから、米軍基地は出て行ってもらったほうがいいに決まっている。
 それでも、軍事的に見れば、どうしても米軍には日本にいてもらわないと困るという人もいます。仮にそうだとしても、ではどうして日本の0.6%の面積しかない沖縄県に、全国の米軍基地の70%が集中しているのか。歴史的経緯があったにせよ、沖縄にこれだけの負担と犠牲を強いておいて、「日本には米軍基地が必要だ」というのは、あまりにも不公平というか虫の良すぎる話なんですね。
 では、その不公平をどう解消していけるのか。米軍基地を他の都道府県がもっと引き受けるべきなんでしょうか。果たして、沖縄の基地を自分のところに移転させてもいいよという県知事がいるでしょうか。
 かつて1990年代に沖縄県知事を務めていた大田昌秀さんという方、ご存じの方もいらっしゃるのではないかと思いますけれども、この人が全国の県知事会で「沖縄の基地をどこか引き受けてくれる人はいないのか」と問いかけたといいますが、どこも返事をしなかったそうです。
 あるいは、米軍には日本から出ていってもらって、日米安保も日米地位協定も捨てて、自分は独自の力で自衛すべきなのでしょうか。しかし、実際にはもう既に、自衛隊は米軍と協調行動をするようになっていると言います。水陸機動団という日本版の海兵隊のような組織を作って、共同で訓練も行っています。
 最近では沖縄だけでなく、東京の中心部でも米軍のヘリが、日本のヘリでも飛んではいけないようなビル街や市街地の上空を飛び回っているそうです。
 米軍と日本が一体化した行動を取るとどうなるでしょうか。

▼憲法第9条

 たとえば米軍が戦争に参加して攻撃を受けたとき、集団的自衛権を行使して日本も戦争に参加すると、日本も相手の国に敵国とみなされて、攻撃の対象となりますでしょう。
 そうなると日本各地にも中距離弾道ミサイルが降り注ぐことになります。米軍が日本中の自衛隊の基地にミサイルを配備するという計画も噂されていますから、いよいよ日本全国が危険にさらされることになりますでしょう。そのような日米の軍事的一体化が進んでいる、最前線が沖縄だというわけです。
 では、私たちはどうすればいいのでしょうか……。
 日本には憲法第9条があります。少なくとも今、自民公明が進んでいる道は、この憲法9条に明確に違反しています。でもこの憲法第9条、ちょっと素晴らしい内容ですので、読んでみたいと思います。
 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 
 前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
 繰り返し言いますが、「武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」「国の交戦権は認めない」と言っています。
 非常に高邁な理想を掲げています。この言葉は、多くの土地を米軍から返還させるのに成功した読谷村という村の役場の前に、石碑として掲げられています。
 太平洋戦争の末期、米軍が最初に上陸したのが、この読谷村です。沖縄戦のことは「鉄の暴風」と呼ばれていますが、暴風のように飛び交う銃弾の中で、逃げ惑う一般市民の4分の1が殺されました。この沖縄戦の激戦地で、この憲法9条の言葉が不変の誓いとして掲げられているのは、そりゃ当然だろうと思います。
 県民の中におじいさんやおばあさんや親戚に沖縄戦で亡くならなかった人はいないと言われるほどひどい目にあった沖縄の人が、平和を望む気持ちは、どこよりも強いと思います。
 これに応えて、私たちができることをしてゆくのが、責任というものではないかと思うのですがどうでしょうか。

▼沖縄は怒っている

 「反戦平和というのは感情論だ」、「感情論では物事は解決しない」と言う人もいます。しかし、「もう戦争は二度とごめんだ。基地は嫌だ。出ていってもらいたい」と思うのは紛れもなく感情です。「平和に暮らしたい」というのも感情です。むしろ「感情論では駄目」という人にこそ必要なのが、柔らかい平和を望む感情で、その感情が根底になければ、それこそ駄目なのではないかと思いました。
 今回の沖縄訪問で、私がいちばん強く印象づけられたのは、沖縄の人の怒りでした。苦しめられているし、嘆いているし、怒っています。怒っている人を何人も見てきました。感情的になっているし、感情的にならざるを得ない。
 そして、日常生活が政治に直結している実感を持っている人がたくさんいます。「どうも政治には関心がなくて」という人は、こちら内地の人間よりはるかに少ない。政治に関心を持っている人の数は、こちらよりも断然多いと感じます。
 そして、政治に直結した教会もあります。
 私が訪れた佐敷教会では、那覇市長選が間近に迫っている時期、10月23日に投開票が行われる直前だったわけですが、辺野古の新しい基地の建設に反対する玉城デニー知事と協調しようとする、翁長タケハルさん(前の沖縄県知事だった翁長雄志さんの息子さんですが)という候補者を当選させるために、「なんとか当選させるために、親戚やお友達に呼びかけてください」と、教会の礼拝後にアピールがなされたりしていました。礼拝が終わってからも、信徒の方々、みんな選挙について話をしていました。
 また、教会とは別の、有志のクリスチャンのグループを訪問をする機会もありましたけど、ここでは、この翁長タケハルさんの当選と、第三次世界大戦をなんとでも阻止したいと、具体的にそういう言葉でハッキリと祈っておられる方もいました。「翁長タケハルさんを当選させてください」とハッキリ祈ります。政治がこんなに身近にあるクリスチャンは他に見たことがありません。それほどまでに、キリスト教会として平和を願う気持ちが強いのだということをひしひしと感じました。
 結果として10月23日(日)の投票の結果、翁長さんは選挙では負けました。しかし、この選挙戦は対立候補に自民公明が億単位のお金をつぎ込んだもので、金銭的には全くかなわないような状況でした。
 かつて自民公明はおむすびに5千円や1万円を埋め込んでくばるような選挙戦をやったこともあるそうですから、今回もどんな選挙戦をやったかわかりません。まあ今回の選挙戦で自民公明がどこまで何をやったかは憶測でしかありませんけれどもね。自民公明としては、基地に反対する玉城デニー知事をなんとかしてねじ込んでしまいたいんでしょう。ですから、とてつもない財力を使って、なんとしてでも対立候補を通すつもりだったんでしょう。

▼平和、平和

 さて本日の聖書の箇所、イザヤ書57章19節は、神に何度も反抗する、信仰の薄い人間を、神さまが赦し、逆に癒そうとする言葉をかけられる場面です。
 先程、新共同訳ではこう読みました。
「わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。」
 聖書協会共同訳だとこんな風になります。ややわかりやすくなっているような気がします。
 「唇に賛美の実りを創造しよう。遠くにいる人にも近くにいる人にも。平和、平和があるように。私は彼を癒そう――主は言われる。」(イザヤ57.19)。
 「遠くにいる人にも近くにいる人にも平和があるように、彼を癒そう」
 「私は彼を癒そう」といいますが、聖書ではこの前の部分から、この「彼」というのが、何度も神を裏切って、神に背き続けた人間だというんですね。そんな「彼」に対して、神はもう一度彼のねじ曲がった心を癒そうとするんですね。そこに神さまの優しさがあります。
 そして「平和、平和」と繰り返されます。「遠くにいる人にも近くにいる人にも」というのは、この言葉が語られているユダヤ人とユダヤ人以外の人(つまり異邦人)という意味だという人もいます。こちら側の人にも、あちら側の人にも、民族の違いに関わらず、平和がありますように、という言葉なんですね。
 「平和、平和」と繰り返されるこの言葉の重みを改めて受け止めたいと思います。

▼足下で苦しんでいる人たちのことを

 さて、あれこれお話してきましたが、沖縄の教会にもいろいろあるようです。ですから、私が訪問した教会、私が訪問したクリスチャンの有志のグループが沖縄の全ての世論ではありません。むしろ政治のことには関わりを持つべきではないという教会もあるようです。
 けれども、そのような、政治には関心を持つべきではないという教会は内地でもいくらでも見ることができますが、あそこまで信仰と政治が非常に強く結びついている教会は、私は今まで見たことがありませんでした。
 そして、そのような教会の方が間違いなく平和を強く望んでいる。米軍基地によって自分たちの生活が脅かされているという現実に抗おうとしているということは確かです。
 私たちの教会では政治に関するお話をすることはほとんどありません。しかし、私たちが内地での生活を一見平穏に暮らしている足下で、沖縄で米軍基地に苦しめられ、悲しみ、怒っている人たちの現実を知ることは大切なことではないかと、改めて思わされました。
 神さまが、愚かで罪を犯し続ける人間に対して、「むしろ人間を癒そう」とおっしゃること。戦いを続ける人間自身が、実は病んでいたり、傷ついているのだということ。それの病や傷を神さまが癒してくださり、「平和、平和」という言葉を繰り返して、噛んで含めるように語ってくださること。
 この神の思いを受け止めて、私たちが平和のために、また不公平を是正するために何ができるのかを、常日頃から考え、できることをなしてゆきたいと思うのですが、いかがでしょうか。
 私の知る、ある牧師の言葉です。
 「私たちは微力ではありますが、無力ではありません」。
 本日のお話を終わります。祈りましょう。


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