気持ちが伝わる語用論入門:英語と日本語の恋愛事情編



「つきあう」を訳してみる


DeepLに「僕とつきあってください」を英語訳してもらうと,Please go out with me.という返信が返ってきた.正直,逐語訳という感じで,日本語が持っている意義は十分に伝えきれていない感じである.ふ,人工ニューラルネットワークの力もまだまだのようだな...(2023年11月1日現在)

などとえらそうに言っているが,正直,自分も「これだ!」と思う訳文にはできない.これにはいろいろと理由がある.

「つきあう」を辞書で引いてみると,go out withというフレーズが載っている(@Wisdom).確かに,これはこれでそういう意味合いを持つこともある.ただ,あくまで英語のgo out withは「一緒に出かける」くらいの意味合いであって,「パートナーシップを結ぶことを考慮に入れた長期間の交際をする」という意味を必ずしも含むわけではない.もちろん,そういう願望がないというわけでもない.要するに空気感のようなものである.

非常に曖昧なのだが,こういった語句の一つ一つの意味を越えて,社会的慣習や人と人との関係性から生じてくるような,言外の領域の研究を言語学では語用論と呼び,語句の文字通りの意味を研究する意味論とは基本的に区別している.「基本的に」というまどろっこしい言い方をしているのは,時にこの両者の区別がつけられないことがあるからである.「きれいに分けられないなら二つに分けるなよ」と言われてしまいそうだが,まぁ,こういう区分をすることによって分かってくることも多いので,とりあえずは「そんなもん」だと思ってみて欲しい.

一方で,日本語の「つきあう」を辞書(@三省堂国語辞典)で引くと,「ふだんからよく会ったり,いっしょに行動したりして,関係を続ける」という意味が1つめにあり,2つめに「恋人として交際する」という意味が掲載されてある.「つきあう」の基本的な意味は1つめで,それが長く使われていくうちに2つめの意味も生じてきたわけである.というわけで,「僕とつきあってください」という要求をしている場合,パートナーシップを築く可能性のある人間が,深い仲になりたいと言っていると解釈することができるわけだ.ここで考えるべきは,パートナーシップを形成するにあたって,「なぜ,つきあってくださいと言わなければならないのか」という問題であるとも言える.

日本の恋愛事情

日本では(特に高校生や大学生の間は),こういう告白というイベントを通して恋人関係になることが多い.逆に,昨今の若い日本人からすれば,告白というイベントを経ていない恋人関係という方が考えにくいことなのかもしれない.

しかし,冷静になって考えてみれば,告白というイベントがある程度定着したのは早く見積もって戦後,せいぜい昭和の中期から後期の間なのではないかという推測はできる.山本リンダさんの歌に「こまっちゃうナ デイトにさそわれて〜♪」というのがあったが,1960年代にはボチボチデートを重ねてから交際に至るという事例がよく観察されたようだ.恋愛結婚がお見合い結婚の数を上回ったのは高度経済成長期というデータもあるので,この頃にはボチボチ告白してから恋人関係になったという人たちが出てきていたのかもしれない.

しかし,告白から恋人関係になってetcというドラマやアニメって何かあっただろうか.『北の国から 初恋』は,純くんとれいちゃんは何となくでつきあい始めていたような気がする.『東京ラブストーリー』は,有名な「カーンチ,セックスしよう」からだったような気がする.『ロングバケーション』の瀬名は涼子さんには告白していたか,でも,南さんとは何となくだったな.『あすなろ白書』も取手くんはいろいろ頑張って告白していたような.NANAは,なんかドロドロしていた...やっぱり,「上杉達也は朝倉南を愛しています.世界中の誰よりも」か(あえて下調べしないで,現在の記憶だけで書いています.間違っていたらすみません).

というわけで,告白というイベントがある種の社会的行為として意義のあるステータスを持っているのは確かであり,「つきあってください」という言葉を発することによって,告白という発話行為を遂行していると言える.発話行為というのは,話し手と聞き手のコミュニケーション上のふるまいと関連する,発話の役割のことを言う.その中で,発話を行うそのもののことは発語行為と呼ばれ,特に,挨拶,宣言,約束などのように,その発話を口にすることによってその行為が行われることは発語内行為,ないしは言語行為と呼ばれている.日本では,告白も発語内行為の一つであると考えることができるだろう.そして,告白という発語内行為は,相手にその提案を受け入れる,ないしは拒絶するという反応のどちらかを求めているという点において,要求のように相手に何らかの行動を取らせるような言語行為の一種であると考えることができる.こういう発話の結果として,告白に応じるという行為は発語媒介行為と呼ばれている.

というわけで,日本という社会においては,告白という発語内行為が持つ力が認識されており,そのために「つきあってください」という発話行為がよく行使されている状況にあるのだと言える.

欧米の恋愛事情

だが,アメリカでもイギリスでも(そして,おそらく広くヨーロッパ各国で),この種の告白という発語内行為はあまり認識されていない.

そのために,恋人になりたいと思っている相手にいきなり告白するという手段はとらない.普通にドライブに行きたければ誘い,見たい映画があれば一緒に鑑賞し,行きたいレストランがあればそこに行き,手料理をふるまいたければふるまい,手を繋ぎたければ繋ぎ,キスをしたり,一緒に寝ることもある.

日本とかなり違うのは,異性(もちろん,事情によっては同性のこともある)の友人という立場ではなく,恋人候補が何人かいるという状態の人がけっこういるということである.要するにsteadyの相手を決めていない状態の人が結構いるわけだ.イギリス人の友人がモテる友人に対して,「彼のwaiting listは長いからね−」とか言っていたことがある.要するに,彼女にする候補を何人も確保しているような人もいるわけだ(隠し事なく,大っぴらにwomanizer, ladies' manになれる).もちろん,女性の側の事情も同じである.だから,同時期に複数の相手と肉体関係を持つことは,浮気とは(あまり)見なされない.

お互いが恋人関係であるという状態は,「なんとなく」決まるようで,友人や家族にgirlfriend, boyfriendであると公言するようになると「つきあっている」状態であると言えるようだ.もしくは,筆者がイギリスにいた頃はFacebookの黎明期で,自己紹介の部分でrelationshipの関係にあるということを公言する人たちがいたが,ああいうのも区切りの一つになっているのかもしれない(しかし,お互いにすれ違いというか,思い違いの状態になることも多々あるのではないだろうか).

そういうわけなので,Please go out with me.という発言自体は,単にどこかお出かけに誘っているだけのことであり,一緒に何回か出かける仲になっていれば恋人候補という扱いになっているかもしれないし,他に候補がなく一人に定まっているようであれば,「つきあう」というニュアンスも醸し出すようになってくる.というわけで,既に恋人候補になっていれば,Please be my girlfriend/boyfriend.と言ったりすることもありなのかもしれない(実際にも,間接的にも聞いたことはないけれど.すみません).

ただし,異性(もちろん,場合によっては同性相手でも)をどこかに誘ったりする場合には,相手に対して恋愛関係に発展することをどこかで期待しているという思惑があるようで,特に下心もなく,なんとなくで異性を誘ったりすることは基本的にないようである.そういう意味では,全ての行動に何となく意味がある社会であると言えるかもしれない.

慣習的に意味を持つ行為


実際に言葉には出さなくとも,ある種のふるまいや慣習が特殊な発語内の力のようなものを発揮することは,日本でもアメリカでもある.平安時代,貴族は女性の家に三日連続で通えば婚姻が成立し,三箇夜餅を一緒に食べたとされていた(高校の古典で習う).言葉にはしなくとも,ふるまいそのものに慣習的な意味がこめられることもあるわけだ.現在の大学生にしても,デートに3回誘って告白等がなければ脈なしと判断するという傾向があるようだ(私調べ).もしくは,花火大会に誘うのは意中の相手という慣習が今も生き残っているようで,食事や遊びには誘えても花火大会に誘うのは心理的ハードルが高いらしい.なお,昔は卒業式の時に第二ボタンを渡す/もらうというイベントがあったが,昨今は憧れの人と一緒に写真を撮ることが優先されるそうだ.今時の女子大生たちに言わせれば,「制服のボタンもらって,何すればいいんですか?」とのことである.夢も希望もない社会になってしまった.神棚にお供えし,日々お祈りをするようなことがあってもいいではないか(不気味か).

なお,アメリカでは,promと呼ばれる高校の卒業ダンスパーティーに誘う相手が本命であると見なされる.そのため,競争率の高い相手に声をかけるのがなかなかに大変そうである.

そして,一昔前のプロポーズに「僕にお味噌汁を作ってください」とか(『めぞん一刻』を思い出してしまう),「僕と一緒の墓に入ってください」とか(緊張しすぎて「ここがお前の墓場だ」と言ってしまったというネタがネットで流行っていたな),なかなか今では言えなさそうなセリフがあったが,これらにもその時代にはそれなりの慣習的な意味が込められていたわけだ.

というわけで,言葉には辞書に記載されてあるような意味の他に,社会慣習や人間関係といった機微から導き出される社会的行為としての意味があることがある.こういった社会的行為としての意味は,時に言葉を使用しなくとも伝えることができるという意味では,言葉の研究であって言葉の研究ではない,もっと射程の広い分野を扱っていると言うこともできる.また,こういった社会的行為としての意味は,必ずしも言葉として表現されるわけではないので,その文化の中における意味,つまり空気感のようなものを察する能力が求められる.つまり,文化的な差異はあれど,ハイコンテクストな文脈依存型の習慣はいろいろな形で存在するわけである.日本だからハイコンテクスト,アメリカだからローコンテクストという二分法はいくらなんでも乱暴すぎる.ハイコンテクストかローコンテクストなのは,場合によるとしか言えないわけだ.

まとめると,語用論について考えることは,その言語が使用されている社会や文化について学ぶことにもつながるわけだ.こういった領域は,生活に関わるものでもあるだけに,実際的なトラブルに巻き込まれたり,うまく社会を乗り切る知恵としても使えるだけに,なかなか役に立つ知識でもある.ただ,射程が広すぎるために,何をどこまで扱うのかということを考えておかなければ,言葉における万物の理論(それはすなわち宗教であり,科学の仕事ではなくなってしまう)にもなってしまうので,注意は必要である.

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