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受け容れる余裕

先月、往生した母方のおばあちゃんの告別式があった次の日、母と一緒に喫茶店へモーニングを食べにいった。
なんだかんだで二人きりでご飯を食べにいくなんて、学生ぶりのような気がする。

こんがり焼けたトーストと香ばしいコーヒーの香りの中で、一時間弱のおしゃべりを楽しんだ。

私と母との関係については先週書いたエッセイを読んでいただければと思うのだが、母親とは年々仲良くなってきている。

30を手前にして精神的にも成熟してきたこともあるし、どんな人に対しても近すぎず遠からずの関係が心地いい私にとって、普段東京で一人暮らしをしているぐらいの距離感がちょうどいいのだと感じる。
月に数回だけ電話をして、その中で一気に近況報告やら最近の出来事を話す。

歳をとるほど親子というより友人たちに近いような感覚になっているのは、親に頼ることなく自分の人生に責任を持って自分で歩めるようになったからなのかしら、と思ったり。
子どもの時には話せなかったような、一層深い話をするようになった。

モーニングを食べにいった時に話題のほとんどを占めていたのは父の話だ。

というのも年末年始に私が実家に帰った時、気になって仕方ない光景を多く見聞きしてしまい、それを抱えて家族の事を背負って寝る間も惜しんでいる母が心配で仕方ないまま東京へと戻ってしまったからだ。

定年を目前にして予期せぬ方針の転換で会社を早期退職することになり、家族と共に岡山のかつての実家に帰ることになったお父さんは、現在きゅうり農家に弟子入りをして畑仕事を始めた。

予期していなかった事にも関わらず新たな人生を踏み出したそれ自体はすごいなと思っていたのだが、気になっていたのは、父の母親(つまり私にとってはおばあちゃん)に対しての態度だった。

おばあちゃんは早くに夫を亡くしており、ひいおばあちゃんが亡くなってからは一人で岡山の実家に暮らしている。いつも元気でお茶目な部分もたくさんあって、私も生まれた頃からお世話になってばかりなのだが、もう80歳を超えていることもあり認知症も少しずつ進んでいる。

家族の名前を忘れたりすることはないのだが、同じことを数時間後に繰り返し聞いたり、わたし達が言った事も時間が経てば忘れてしまったりする。

昔から人に気遣いができて、どんな人にも心配なことがあるとよく声をかけてくれる。私も事あるごとに何度もおばあちゃんが聞きにきてくれるたびに「大丈夫じゃけん、気にせんでええよ」と返事をしていたのだが、昔から短気な上にただでさえ慣れない仕事と肉体的な疲労が増えた父にとって、その言葉はだいぶお節介で嫌だったのだろう。

毎日何度も繰り返されるおばあちゃんの言葉は、少しずつ父の神経を逆撫でしてしまうようになっていたようだ。

一年以上ぶりにゆっくりできる、と年末年始に実家に帰ったのも束の間、気になることがあってリビングにやってきたおばあちゃんに対して、わたし達がご飯を食べている最中なのにも関わらず大声を張り上げる父に、敏感な私の心身は一気に疲れてしまった。

おばあちゃんは「そうか、そうか」と言いながらドアを閉めて自分の部屋へと戻っていく。あの時の寂しそうな顔を思い出すと私はすごく悲しく、辛くなってしまう。

その時も空気が悪くなっていることを暗に伝えようと、露骨に顔色を悪くし俯きながら半分残った炒飯を食べていたのだが、父はそんな事には全く気がつかずお風呂へと行ってしまった。

私はその光景を見て、空気で感じて、一人でこの状況を切り盛りしているお母さんがさらに心配になってしまった。
なぜなら父と祖母のこと以前に、母はまず私の妹のことに体力と気力と時間を割いていたからである。

妹はさまざまな発達障害を併せて抱えているので、私たちが何の気なしにできる「着替える」「ご飯を食べる」「お風呂に入る」のような生活一つでさえも、他の人の何倍、何十倍も時間とエネルギーを使ってしまう。ただ母と妹の努力の甲斐あって何年もかけて状況は少しずつ変わってはきている。

ただ、昼夜逆転生活をしている妹と話す時間を作ろうとする場合、母は必然的に睡眠時間が不規則になってしまうのだ。

その上で、おばあちゃんが危ないことをしたり、勝手にどこかへ行ったりしないか気にかけながら労ったり、父の機嫌を伺わなければならないので、何重にも重なった母親の心労を想像しただけでも気分が重くてたまらなくなった。

案の定、母は年始早々熱を出し寝込んでしまったので、さすがに私も帰り際に「あまりにも無理しすぎ。自分の体も大事にして」と怒ってしまった。

東京に戻ってからも母のことが頭をよぎって連絡を取ったりもしていたが、二ヶ月ぶりに会ってモーニングに出向いて美味しいコーヒーとトーストを頂いている最中に母が思い出したように話し始めた。

「あ、そうそう。お父さんに伝えられたよ」

重要な部分がなくても、その一言で何の事を指しているのかすぐわかった。それを聞くと同時に私は「ほんまに!」とため息と共に安堵した。

以前からのエッセイにも書いているように、お母さんは昨年の年の瀬から、お別れが近づいていた自身の母の世話をするために週に何度も岡山から車で大阪に帰っていたのだが、実家でその話をしている最中に夫婦で今後の話をすることがあったらしい。

母は「私がもし、お母さんみたいになってきたら、子ども達にもすぐに施設に入れてねって言ってあるねん」と父に打ち明けたのだという。お父さんもそれには驚いたらしく、「家にいればいいではないか」と言ってきた。
だが、そんな父に対して「今のお母さんに対する態度を見ていたら私も言われるんじゃないかと思って、それを考えたらとても苦しいものがある」「自分が子ども達にそれを言われてどう感じるか考えたことはある?」と伝えてみたそうだ。

内情すぎるのでこれ以上詳しくは書かないけれど、概要はこんな感じだ。
それでお父さんもようやく冷静になったらしい。

昔から一家を支えようと責任を持って働いてくれて、家族のために煙草もやめたりお酒も控えめにして健康にも気を遣うようにもなった父。自分の中の考えや意思がしっかりしている父だが、それゆえに人の意見にはあまり肯定的でなかったり受け入れようとしない節がある。あとは意外とナイーブなのも知っている。

だからやんわりと伝えても受け入れてもらえないし、かといって強く言えばショックを受けてしまうことを思うと、今回の母の伝え方はとてもストレートに父へも伝わったのだと思う。
父の言動や行動が少しずつ変わり始めたということを聞いて、私は嬉しくなった。

父の姉にあたる私のおばさんも、最近のお父さんの言葉の変化には驚いていたらしい。

自分にとって苦い言葉だったはずなのに突っぱねたりせずに真摯に受け止めた父は立派だと思う。誰目線だと言われそうだが、きちんと人として自分を見つめ直せるところは尊敬する。
私はそれを聞いて、ひとまず安心して東京へ再び帰れるようになった。

もう30歳を目前にしようとしている時でも身の回りでどんなことが起こるか誰にもわからないな、と思う毎日だ。
ただ、こうして離れていながらも家族の話をきちんとできるのは有難い。

これからも近づきすぎず離れすぎず、いざという時にいつでも話ができるような関係は続けていきたいなと思った、そんな朝だった。

冷めてしまう前にカフェオレを飲み干して、店を出る。
次に直接会って話すのは何ヶ月後だろうか。それまでにまた喜んでもらえるように私もひたむきに日々を過ごそうと思う。

読んでくださりありがとうございます。 少しでも心にゆとりが生まれていたのなら嬉しいです。 より一層表現や創作に励んでいけたらと思っております。