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今日から、再び

あけましておめでとうございます。今更すぎるが、冬眠していたわけではない。28歳、爆睡はするようになったけれど。

どうやらnoteを書くのは半年ぶりみたいだ。気がつけば年が明けて3月を迎えていた。
年月が過ぎていくのはどうしてこんなに早いんだろうか。毎日を楽しいと思って生きているからだろうか。一週間ぐらいの感覚で過ごしていたらもう一ヶ月経っていたという事が年を重ねるほど増えている気がする。

保育園で仕事をして、ダンスで舞台に立って、イラストを描いて、音楽を作って・・・。色んな事に没頭していたそんな日々の中で、よく私のiPhoneには通知のメールが届いていた。

私のnoteアカウントをフォローしてくれたり、投稿にいいねを押してくれた人がいる事を知らせる通知だった。

他の人の記事を読むことはあっても自分のアカウントはほぼ放置していた状態に等しいのに、今も何年か前の記事を誰かが見てくれたのだという事実はとても嬉しかった。

投稿自体は半年していなかったが、文章はなんだかんだでパソコンにはちまちまと溜めてはいたので、出来るだけ早くここにまた定期的に投稿できるようになりたいなと思っていて、今日ようやくここまで漕ぎつけたわけだ。

ここに投稿するまでに、だいぶ過去の記事を整理した。
というのも、今年に入って溜まりに溜まった自分の頭の引き出しの中身をスッキリしなければいけないと思い立って、年末年始から最近になるまで片っ端からこれまでの記録媒体をチェックしていたからだ。

その中でもnoteの整理が一番時間がかかった。やはり文字だとどうしても時間がかかる。noteを書き始めた5年前なんかはほぼ毎日投稿していたもんだから、よくやっていたなと思う。でも、たかが5年でも自分の文章の変化みたいなものを感じて、愛おしさも感じながら見返していた。

搾りかすになるくらいまで文章を捻り出していた時期、イラストを添えてみたり、ですます調に変えたほうがいいのかな、とか試行錯誤をしていた時期、そんな工夫が見て取れて、それをいちいち汲み取っていたのが作業時間をやたらと伸ばす要因にもなってしまった。

ただ、その作業を経たことで私にとって毎日継続できるという事実は、それが好きだという確かな証にもなった。
かつては自分の中にある形にならない気持ちの輪郭を捉えるトレーニングも兼ねて始めた事だったが、気がつけば言語で思考を捉えることは今の自分にとって必要不可欠になっている。最近の投稿になっていくほど、描写の表現も豊かになって自分の伝えたかったところまで書けるようになったと思う。

書き始め当初の文章を振り返っている時に、時折話題が重なって同じ印象を受けるようなものがあったり、明かに無理やり書いた感がすごい文章なんかもあって苦笑してはそっと下書きへと戻した投稿なんかもあった(それはそれで面白かったのだが)。

けれど年月が経つごとに、自分で見返しても残しておきたいと思える文章が書けているんじゃないかなと思える投稿が増えていって、最近のものに関しては下書きに戻そうという気持ちにはならなかった。むしろこれを読んで笑ってくれたり、ちょっと元気になってくれたら嬉しいとさえ思うようになった。

自分にしか出せない文体みたいな、そういう気配が文章から出始めるようになった感覚がある。

あとは、ダンスや絵を描くというノンバーバルな表現分野をしているからこそ、言語化という大切さをひしひしと感じている。

昨年は絵画やダンス、お芝居など分野を問わず色んな作品を見にいった。その中で客として俯瞰して見ていた時、作り手が表現したいことをどこまで自分の中で言葉で落とし込んでいるかが質に現れている気がしたのだ。

「わかりやすければ、楽しければ、バズればそれでいい」だとか、そんなものはあからさまに露呈するし、かといって「観る人、演じる人が感じたいように感じてください」というスタンスはあまりに委ねられ過ぎて逆に何も感じられなかったり。

脳みそが痺れるくらい見入ってしまうものは、「どんな光景を見せたいか」という事が明確にあった。その中で考えさせる余白があった。
きっとこの人は見たい景色をきちんと言語として捉えているから、こんな素敵なものを作れるんだろうなとも。

だからこれから益々、自分も自分の言葉で紡ぐ事を大切にしていたいと思う。新しくなった引き出しを駆使して、また試行錯誤しながら頭の中にあるものをつくっていきたい。

改めてこのnoteという場がある事に、見てくださる人がいるという事に感謝しています。
引き続き今日から定期的に書いていきますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

読んでくださりありがとうございます。 少しでも心にゆとりが生まれていたのなら嬉しいです。 より一層表現や創作に励んでいけたらと思っております。