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正解のない時代に必要なのは、「学ぶ」と「行動する」をつみ上げる力 〜 最近の気になった記事から

最近の記事で気になったのは、すべて「学び」に関するものだった。それぞれまったく違う文脈で書かれた記事だったけど、ピタッと同じところに結論が着地するのが面白い。

その結論は、VUCAの時代、「正解のない時代」に必要なのは、「学ぶ」と「行動する」をセットでとらえることが大事。そして、行動の結果を振りかえることを通じて学びを深め、つみ上げる力が必要なのだ、ということだ。

「正解至上主義」を抜け出すには?

そんなことを考えることになったきっかけは、なぜ日本の大人は学ばないのかについて書かれた記事を読んだこと。

ジャパン・リスキリング・イニシアチブ 代表理事の後藤宗明氏と、『「学ぶ力」と「地頭力」がいっきに身につく 東大独学』を書いた西岡壱誠氏の対談だ。

変化の時代にあっては、「学ばない」という選択肢はない。そのために必要となる内発的な動機を生み出すのは「学びに対する成功体験を持てているかどうか」だと西岡氏は語る。

では、何が「学びに対する成功体験」を阻害するのか?

それは、「正解至上主義」から生まれる「間違ったら嫌だ」という感情だ。

失敗することに対するハードルがすごく高いわけです。
これは「自分は馬鹿だから」と言う人にも通じています。その気持ち、実は僕もそうでしたから、よくわかるんです。予防線を張っているんですよ。自分のことを「馬鹿だ」と言っておけば、たとえ間違えても、「あいつ馬鹿じゃないか」と言われてプライドが傷つくことはないわけです。

そういうわけで、大人になっても学びつづけるためには、「失敗に対するハードルを下げる」必要がある。そのためには何をすればいいのか?

大事なのは、「学び」に対する認識を変えること。

「学び」とは、1か所もダメな結果を出さない唯一の正解を得る手段ではなく、失敗する可能性のある行動と深く結びついた、ダメな部分を分析できる力のことだから。


多くの人は、1カ所にダメな部分があれば、すべてダメだと思いがちです。例えば、「この問題が解けなかった」という結果だけで見てしまいます。
でも、頭のいい人の考え方はそうではなくて、スパイダーウェブ的だなと思います。「ここはうまくいったけど、最後でうまくいかなかった。5分の4は成功で、5分の1が失敗だ」と、蜘蛛の巣のように一部分がダメになってもへっちゃらな思考ができる。要するに、ミスを分解する能力があるわけですね。

「正解至上主義」にとらわれてしまうと、失敗しない正解が得られるまで行動に踏み出せない。

大切なのは、「学ぶ」+「行動する」をセットで振りかえること。そこから新たな「学び」を生み出し(「ここはうまくいったけど、最後でうまくいかなかった」)、そのつぎの行動が正解となる打率を上げることができるということだ。

混沌から学びを深めるための心がまえと身のこなし

「間違ったら嫌だ」という感情は、そこに不確実性があることを示している。

なぜそこに不確実性があるのかというと、解決すべき問題がはっきりしていないから。ここでやらないといけないのは、問題を解決するのではなく、真の問題を発見すること。

簡単に表現すれば、問題発見というのは川上で、問題解決が川下という関係になります。問題解決が重要な場面とは、解決すべき問題がすでに明確なとき、例えば顧客からの安定的な発注があるとか、毎年目標が前年のスライドで決まっている(売上〇%向上とかコスト□%削減とか)というような場合で、比較的安定的な環境ではこのような狭義の問題解決の重要性が増します。

これに対してVUCAの時代には、そもそもの問題は何なのか? というところから考えることが必要になる場面が増えてきます。

川上の問題発見と川下の問題解決では、課題の性格がまったく異なっている。

問題解決では、ルーチン化した問題も多く、不確実性が低い。しかし問題発見では、「混沌として役割分担などの境界が不明確なものが多く、扱う課題の抽象度も高く」なる。

また、「白紙に絵を描く」必要がある問題発見では、蓄積されたノウハウや明確な指標が存在せず、仕事も標準化されていないために高度に「個人に紐ひもづいた」属人的な仕事が多くなります

さらに、川下の問題解決では、「『与えられた問題に取り組む』受動的姿勢」が必要になるのに対して、川上の問題発見では、「言われてもいない問題を考える」ことがとくに重要だ。

VUCAの時代、つまり「正解のない時代」で重要になるのは、「与えられた問題」への正解を得る「学び」ではなく、「混沌として役割分担などの境界が不明確な」状況のもと、「言われてもいない問題」を考え、行動することを通して「学び」を深める心がまえと身のこなしだということになる。

あるべき「知行合一」とは?

なんと、まったく同じことが、こちらの記事にも書いてあった。

「わかるか?」が強い人は、…「わかるか、わからないか」がすべてに優先される判断基準となってしまっているため、わからなければ、それを何もやらない免罪符にしてしまうのです。

これに対し、結果を出せる人はこんな人だ。

たとえよくわからなくても、たとえ実行できそうなイメージがわかなくても、「とりあえずやる」と決めて、何かしら行動しはじめる。1つひとつは些細なアクションに過ぎなくても、何もせずにふんぞり返るといったことだけは断じてやらない。

この記事では、「わかるか?」のタイプと「やるか?」のタイプの違いを、「知行合一」のあり方(「知る(=学ぶ)」ことと「行動する」ことの関係性)の違いとして説明している。

「わかるか?」タイプが「知のみ」で完結。

「やるか?」タイプをより正確に書くと、「知⇆行」もしくは「知=行」といった認識で、じつはこれが、知行合一の本来の意味である「知と行は元々1つ」に近い捉え方です。

知行合一が「知のみ」で完結するタイプの人は、「知る」ことを通じて1か所もダメな結果を出さない唯一の正解が得られると考える。

これに対して、「「知⇆行」もしくは「知=行」といった認識」を持つ人は、ある程度を学んだら行動に踏み出し、「知る(学ぶ)」+「行う」をセットで考える。

この記事の著者は、「知のみ」で完結するタイプの考え方を「こじらせた知行合一」だと語る。

「こじらせた知行合一」で仕事をしていると、「わからないうちは何もやらない」働き方がデフォルトになってしまいます。わからないなりに、何かできそうなことを考えて行動に移していこうといった創意工夫の発想が希薄なため、ちょっとでも不明点があると「とりあえず後回し」にしてしまうのです。

「こじらせた知行合一」とは、「間違ったら嫌だ」という感情を生み出す「正解至上主義」なのだ。だから、正解至上主義を脱するために必要なのは、「とにかくまずはやってみる」精神だということになる。

「私はわかってません、だからできません、やれなくても当然です」ではなく、「とにかくまずはやってみる、やってるうちにできてくるし、わかってくる」という「やるかどうか?」で働くことの重要性を説いています。

「正解至上主義」を脱するために必要なのは、「とにかくまずやってみる」精神。

それは、「知る」ことと「行う」ことをつみ上げるプロセスを通して、そのつぎの行動が正解となる打率を上げていくことに他ならないのだ。

「HOW(どうやって)」の問いで「DO(やる)」につなげる

そんなこんなをボンヤリ考えていたら、2022年11月20日の「ほぼ日イトイ新聞」のコラム「今日のダーリン」にもバッチリ同じことが書かれていてビックリした。

「HOW(どうやって)」は、よく生きるためにとても大事なことで、もっと大人もやればいいのに、というようなことを言った、本気でそう思う。

そこにあるのは、「わかる」とか「説明がつく」とか、頭のなかで終わるようなことではなく、「DO(やる)」につながることである。」
「「WHY」「WHAT」も問わなきゃだめだ。しかし、「HOW」は現実を生きるために、ほんとうに必要で重要な問いかけなのである」

〜 ほぼ日イトイ新聞 「今日のダーリン」 2022年11月20日

「わかる」とか「説明がつく」のような、「知のみ」で終わらせるのではなく、「DO(やる)」につながる「HOW(どうやって)」の問いを立て、すぐさま行動に踏み出すことで、「知⇆行」もしくは「知=行」をつみ上げ、正解に近づいていく力が、「現実を生きるために、本当に重要な」力だということ。

正解のない時代に必要になるのは、「学び」を「知る」だけに終わらせない態度だ。

そこには、「学ぶ」と「行動する」をセットでとらえる心がまえがあり、行動の結果を振りかえることを通じて学びを深め、つみ上げていく身のこなしがある。

それは、「アジャイルな人事」を標榜するメルカリの人事システムとも重なり合う身体感覚のようなものがあるように思える。

「混乱を制度でむりやり抑えこもうとするのではなく、揺らぐことのない組織文化の基盤をつくり、つねに立ちあらわれる不安定をしっかり包みこんでいこうとする姿勢」こそが、「「知⇆行」もしくは「知=行」といった認識」を持つ人にみられる特徴だと思うからだ。

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