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【連載】雲を掴んだ男 06/面影と焦燥

 里香は、昔からとにかくひどい泣き虫だった。小学校に入学してすぐ父親を亡くして、母と姉と女ばかりの三人暮らし。朝早くから深夜まで働きに出る母親と、アルバイトで家計を支える歳の離れた姉。突然訪れた家族の不在に耐えられず、泣いてばかりいた里香は、気がつけば夏生の家に預けられることが多くなっていた。

「ナッちゃんは意地悪だから、ユウちゃんに遊んでもらうんだからね」

 零れそうなほどに、大粒の涙を溜めながら、里香はいつもそう言って隣の悠一の家へ押し掛けていった。ひとつ下のワガママ娘に手を焼いていた夏生はその度にホッとしたものだったが、30分も経たないうちに今度は悠一を連れて戻ってくる。

 そんな調子で、小学生の頃はいつも悠一と里香と行動を伴にしていた。悠一が引っ越して、夏生も中学生になってからは少しずつ疎遠になっていった。里香も中学で陸上部に入ったことがきっかけになったのか、もう泣きながら夏生の家に来るようなことはなくなった。時折言葉を交わしたり、夏生の母の声掛けで夕食に訪れることはあったが、昔のような時間を過ごすことは、おそらくもうない。三人の縁は、悠一があってこそのものだったのだ。

「でも気になるんだろ」

 夏生の心を読み取ったかのように、悠一がゆるりと尋ねた。

「別に」

 夏生が知らなかっただけで、馨は生徒会副会長の人気者。里香だっていつまでも子どもじゃあるまいし、目立つ先輩に焦がれてもおかしくはない。自分と里香の関係を馨は知るはずもないから、照れ隠しに生徒会の仕事だと嘘を吐いたのかもしれない。そう考えれば、何ひとつおかしなことなんてない。

「里香の自由だろ」

 間を置いて、夏生は言葉を紡ぐ。これ以上は、別に考えたくもなかった。そんな夏生の様子を察したのか、悠一は抜け殻よろしく項垂れている柴田を一瞥すると、自身のグラスを持って席を立った。

 その時だった。
 テーブルに放置していたスマートフォンが鈍く光る。視線だけを画面に落とすと、そこには里香からの着信が表示されていた。

「……何?」

「あ、夏生? 俺だけど」

 無愛想に通話口に出た夏生を待っていたのは、里香ではなく平坦な男の声だった。

『ごめん、俺夏生の連絡先知らなかったから。里香ちゃんに借りた。猫が見つかりそうなんだ』

「おい待て、何の話だ」

 聞かなくてもわかる。夏生に猫の話を持ち出すのは、世界中探したところで一人しかいない。

『里香ちゃんがさ、猫の集会場を知ってるらしくて教えてもらったんだ。今日の夜、20時に駅前のコンビニ集合な。俺のIDあとで送っとくから』

 言うと、夏生の返事も待たずに電話は切れた。繋がらない。里香と猫がどうにもこうにも繋がらない。

 たとえば馨が里香に猫の相談をしたとしても、二人の接点はどこにあったのか。そもそも、この一ヶ月間を振り返ってみても、馨が夏生以外の人間と猫がどうしたと話しているのを見たこともない。なぜ里香だったのか。なぜこんな馬鹿げたことに、里香も関わっているのか。

 夏生でさえ、悠一や柴田に猫の話をするのは憚られたというのに、自分の与り知らないところでやすやすと猫探しの話をされるのは、あまり気分がいいものではなかった。

ーーいや、俺が始めたことじゃないのだから

 夏生はふと思い直すと、絡まり続ける脳みそをシャットダウンするように、氷の溶け切ったオレンジジュースを一気に飲み干した。


>> 07/乙女の祈り  に続く

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