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なぜ差別発言をした本人がそれを差別だと気がつかないのか①差別の定義

こんにちは、いちです。
先日は国際女性デーもあり、森前五輪組織委員長のこともあり、当時から考えていたことを少し書きたいと思います。

大きなテーマは、
なぜ差別が起きてしまうのか」
「なぜ差別発言をしてしまった本人がそれを差別だと気がつかないのか」
「教育にはなにができるの」
という三つのことです。

今回はこちらの論文を主に参考にしながら書いています。
"藤田武志. (1996). 反差別の授業の構築に向けて:「青い目茶色い目」 の授業の社会学的考察をとおして. 教育方法学研究, 21, 193-201."

それでは、そもそも「差別」とはなんなのでしょうか。
みなさん、「差別」とはなにか、他の人に説明することはできますか?意外と難しくありませんか?

まず、wikipediaの差別の定義をみてみましょう。wikiによれば"差別(さべつ)とは、特定の集団や属性に属する個人に対して、その属性を理由にして特別な扱いをする行為である"と定義されています。

たしかにわかるんですが、よくよく見ると、この定義大雑把すぎ・・・😂
この定義は2つの理由で不十分だと僕は思います。1つは"特別な扱い"の定義がなされておらず、結局何をもって差別とするのかが明確でない点。
もう1つは、差別がなぜ起きるのかという差別の構造を説明していない点です。

例えば、女性専用車両は女性という属性による特別扱いと考えられますね。これは差別にあたるのでしょうか。
もしくは、企業が人材を募集するときに大卒以上の募集条件を設定することがあります。これは差別でしょうか。LGBTQの人を応募不可にすることは差別でしょうか。最初の定義によればこれらのことは全て差別になってしまいます。

しかしこれらの例には差別ではなく、区別も含んでいるように思えますね。属性による特別な扱いは、学割だってそれにあてはまりますが、私たちは学生やそうでない人たちを差別していのではなく、差異を区別して対応していると考えるべきです。

ここに「なぜ差別が起きるのか」、そして「なぜ差別発言をした本人がそれを差別だと気がつかないのか」、ということの第一の原因があります。

それはそもそも「差別とはなにか」ということがよくわかっていないことです。なぜよく分からないかというと、「差別」は社会的・文化的・時代的な背景によって変化するものだからです。

したがって「差別」は人と人との間で生まれる社会的なものであり、自明のものではなく、私たちで定義して初めて認識できるものなんです。

例えば広辞苑の定義では、差別は "差をつけて取りあつかうこと。わけへだて。正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと" と書かれています。こちらはwikiよりも具体性がありますが、それでも「正当な理由」「不当に扱うこと」という点に関しては、何をもって正当な理由とするのか、何をもって不当な扱いとするのか、という点は明確化できません。なぜならそれらは社会的・文化的・時代的な背景によって変化するものだからです。

ですので、一概になにをもって「差別」かを明確化することはできず、それゆえに差別意識なく差別をしてしまうことがあるのです。

さて、今回参考にする藤田(1996)の論文では、差別の定義についてこのように書いています。
「差別行為とは、ある状況における個人や集団を、当該状況を構成する成員から排除することであり、それは告発によって差別として立ち上がる」

なかなかしびれる定義です。こういう社会学的な論文をたまに読むと、その言葉の使い方に圧倒されます。例えば、この人は差別は立ち上がるものだと定義しているんです。差別は成立するのではなく、立ち上がる。

さて、藤田さんの定義ではwikiや広辞苑の定義と比べて「排除」と「告発」の2つの言葉がでてきました。ここが肝心です。
まず、具体性のなかった「特別な扱い」とか「不当な扱い」はより具体的に「排除」と定義づけられました。藤田がここでいう「排除」とは、自分のルールを一方的に相手に押し付けることを指します。つまり相手とルールに対する認識が異なるにも関わらず、自分のルールを相手に一方的に押し付けることは、相手の存在を認めないことであり、それが「排除」だと言います。

例えば、先ほど挙げたLGBTQの人は採用試験に応募できない、という募集要項を例に考えてみます。これは会社側が定めた一種のルール(状況規範)ですが、このルールがお互いにとって合意されている自明のものであれば、なんの問題もありません。しかし、応募する側の誰かが、「性的嗜好は職務内容に影響を与えるようなものではないので、このルールはおかしい」と考えた場合、そこには排除が生まれます。なぜなら、合意のないルール(状況規範)を一方的に適用しているからです。

つまり、"LGBTQ応募不可はおかしい!"と思っている人がいるのに、それをさも当たり前のように適用することは、ルールに合意していない人の存在を無視すること(当該状況を構成する成員から排除すること)であり、これが「排除」だといえます。

この、一方的なルールの適用がいかに民主主義的な考え方と乖離しているかは明らかですが、たしかにこれまでの歴史を見れば被差別者は常に無視(排除)されてきました。例えば、日本では女性の参政権は男性よりも21年遅れて実現した歴史があります。21年間、女性だからという理由で選挙権がない、というのは、女性を国民として認めない、その存在を無視する(排除)ことと同義ですよね。

そして、藤田さんはそのような排除が「告発」されて初めて差別として成立すると述べます。おかしいと声を上げる人がいて初めて、それは「差別」として立ち上がるというのです。

たしかに、誰かが声をあげないと、そもそもおかしいと思っている人がいることがわからないですからね。それは当事者でも、そうでない人に関わらずです。

このように考えると「差別」解消の糸口は「対話」だとシンプルに思えますよね。つまり「公平」とか「平等」といったものは、おかしいと思う人の声を聞いて初めて実現できるものであり、その人の存在を認めることは、その人の意見を聞くことから始まるのだと。

なんでもかんでも話を聞きゃあいいってもんじゃないです。全ての人の意見を取り入れることも無理です。ただその過程がどうあるべきか、、、対話って難しいですよね。

今回の結論は、なにが「差別」かを明確化することはできず、それゆえに差別意識なく差別をしてしまうことがある、ということでした。

この結論は差別の「定義」に関わることですが、次は差別の「構造」について書きたいと思います。はい、書きたいことはあるのに、書くのに時間がかかりすぎて、いつも書けないんです。。。。
このnoteも最初と比べて、最後がぐだぐだになっている。。。

「差別の構造」これも面白いですよ。

続く...



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