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古本市

先日、近所で開催された古本市へ出かけた。年代物の巨大な蔵で年に2回開催される名物市で、県内外の古書店が20ほど参加する。開始時刻に合わせて到着すると、蔵にはすでにたくさんの人が集まっていた。絵本のみを扱う店、ミステリーを専門とする店などさまざまで、値段も100円、2万円などピンキリ。まずは、入り口近くの店から順に流していく。

蔵の中は少し涼しいかも、と期待していたけれど、多くの人でごった返す空間はとても蒸し暑かった。化粧をせず出てきたのでマスクをつけていたこともあり、さらに息苦しさを感じる。薄暗い蔵で、誰も彼もが本に夢中になっているなか、正直すっぴん隠しのマスクは必要なかった。

古本市では、気になる本はその場で購入するのが鉄則。迷っている間に本は売れてしまい、後悔する羽目になる。その日もさっそく、読みたいと思う本を見つけた。谷崎潤一郎や武田泰淳など30名ほどの作家たちが、気に入りの本や読書の仕方などをエッセイ形式で紹介するもの。値段は400円だった。「これは珍しい」と思ったものの、なぜかそのまま棚に戻した。その店には人が少なく、ざっと一回りする間に売れることはないだろうと算段を踏んだ。

次の店、次の店と流し、また足を止める。1冊気になる本を見つけると、大抵、その店の他の本も好きな系統のものであることが多い。じっくりと時間をかけて1冊、また1冊と手にとり、ページをめくる。本の選び方は人それぞれだ。最初のページを開いて数行を読めば、ある程度自分好みかどうかはわかる。けれど、書き出しに力を入れている作家は多いはずだからと、なるべく途中のページも開いてみるようにしている。

他の本はすべて背表紙を見せる形で並べてあるなか、1冊だけ、目の高さの台に表を前に置かれている本があった。著者名を見て、心臓がコトンと音を立てる。串田孫一。わたしの敬愛する随筆家だ。山歩きのエッセイを多数残している彼の本を見つけるたびに読んでは、山へ行きたい思いを募らせている。

『菫色の時間(アルプ選書)』。第1刷発行は昭和35年。状態はとても良く、箱に入っている。本は薄いパラフィン紙に包まれ、大切に扱われていたことが見てとれる。著者が描くイラストも折々に差し込まれ、言葉の並びもとても美しい。1500円と割高だったものの、もはや絶版となっている本にこの後出会うことはないだろうと思い、財布を開いた。

古本市での楽しみは、店主との会話にもある。言葉少ない人もいるが、誰もが本を愛しているのだろうとわかる人たちばかり。会話が弾むと「気に入るかもしれません」と言いながら、いくつかの作家の名や書名を教えてくれたりもする。質問に嬉しそうに答えてくれる姿を見ると、こちらまで愉快になる。

十分に満足し、最初に気になったエッセイを買って帰ろうと件の店に戻ったら、目当ての本はすでに売れていた。周辺の本はそのままなのに、その1冊だけ抜き取られただろう隙間がポッカリと空いていた。どれだけ後悔したことだろう。値段は400円、迷わず買っておけばよかったのだ。でも、バッグには串田孫一の本が入っている。それが大きな慰めとなった。その後、出口付近に積み重ねてあった料理本を300円で購入し、古本市を後にした。

出会いは一期一会。今日買い逃したあのエッセイはきっと、わたしよりも必要な人の元へ旅立ったのだと思うことにした。