一日一菓

エッセイ/旅の記憶/食べること/生きること

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ストックホルムの画家

スウェーデンのストックホルムで、夕方、海辺を散歩していた。2日前、ヨーロッパを周遊する長距離バスEurolinesで到着したばかりだった。強烈な夏の西陽を浴びながら、私はスケッチブックを広げられる場所を探していた。 絵心があるわけではないけれど、旅先では何かしら絵を描くことにしている。無数のボートのうちの1隻を描いていると、背後から低い声がした。 「Are you an artist?(アーティストなの?)」 見ると、50代後半くらいの男性だった。短パンにビーチサンダル

    • 想像力の使いみち

      10日ほど前、家の中で低く硬い木のテーブルに思いっきりスネをぶつけ、その衝撃で転倒してしまった。普段は置いていないそのテーブルを、前日に使う予定があるからと、廊下に置いていたのをすっかり忘れていた。慣れとはこわいもので、夜でも真っ暗な中を移動するのが習慣になっていた。急いでいたとはいえ、あんなにも強い衝撃を感じたのは人生で初めてだったかもしれない。 瞬間、何が起きたか分からなかった。痛みは少しだけ遅れてやってきた。あまりの痛さにその場から動けず、5分ほどは倒れていたと思う。

      • 編む

        数年前、編み物を始めた。20代の頃に一度挑戦し、私には向いていないと諦めたものの、コロナ禍で家で過ごす時間が増えたこともあり、再び始めてみることにした。 なぜ一度断念したのかというと、編み図が読めないから。編み図を詳しく解説した本をいくら眺めてもそれは暗号そのもので、編み物の世界の入り口への扉を、ピシャッと目の前で閉ざされたような気になった。 しかし、世に出ている「動画」のおかげで、編み物ができるようになった。まったく理解できなかった暗号の解き方を、映像を介して手取り足取

        • 完璧な日々

          役所広司さん主演の映画『Perfect Days』を観に行った。役所さん演じる主人公・平山の代わり映えのしない、淡々とした日常を映した作品だ。監督はヴィム・ヴェンダース。彼の作品が好きで、そのほとんどを観ている。 平山は毎日同じ時間に起き、洗顔し、髭を剃って着替え、家を出る。仕事は都内のトイレ掃除。無口な彼は、職場の人ともほとんど言葉を交わさない。仕事が終わると日課の銭湯に行き、行きつけの店で一杯。寝る前に布団の中で文庫本を読み、眠くなったら寝る。それの繰り返し。 休日に

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        ストックホルムの画家

          ヤマザキ

          実家のある町には、私が高校生の頃まで「ヤマザキ」があった。そう、ヤマザキパンのチェーン店、いまでいうところのコンビニみたいな小店で、パンはもちろん、ケーキやホットショーケースに入った肉まん・餡まんなども売られていた。 高校へ通うバス停のすぐ近くにあったこともあり、よく店に足を運んだ。部活を終えて最終のバスに乗ると、最寄りのバス停に着くのがだいたい19時50分頃。店は19時に閉店だったので、部活がない日にだけ間に合う。19時前にバス停に到着した日には、バスを降りて徒歩20秒ほ

          お弁当

          高校は進学校だったため、朝と夕方の2回、課外授業があった。学校まではバスで1時間。朝課外は8時開始で、毎朝6時20分頃の始発バスに乗る。夏はすでに明るいからいいものの、寒い季節にはまだ真っ暗ななか、素足が見えるスカートをはいた姿でバス停まで歩くのも大変だった。 とはいえ、もっと大変だったのは母だった。毎朝5時前には起きてお弁当を用意してくれた。お昼には売店でパンの販売があったけれど、ほとんどの生徒はお弁当持参で通学していた。 私が5時半頃に起きて台所に行くと、すでに台所に

          デトックス

          今朝の気温はマイナス5度。朝起きると、一面真っ白な世界が広がっていた。山の家は2回目の冬を迎えるけれど、やっぱり寒さにはまだ慣れない。朝から水道管が凍結し、トイレの水が流れない。料理用には山の汲み水があるから大丈夫だけれど、11時頃になって気温が少し上がり、水道から水が流れるとホッとする。 普段の暖房器具は灯油ストーブとこたつ、エアコンの3つ。時間帯によって使い分けていて、朝起きたらまずは灯油ストーブとこたつをつける。ストーブは部屋がすぐに温まり、1時間もつけているとうっす

          デトックス

          母のこと

          私の母は、今年68歳になる。22歳で結婚してすぐに私を産み、その翌年には弟を出産した。職人の夫と子ども2人と一緒に、小さな借家で慎ましやかに暮らしていた。 母は結婚するまで実家を出たことがなく、自動車教習所の事務の仕事にも実家からバスで通っていたという。特にこれといった苦労もしたことがなく、「普通」に生きてきたそうだ。 そんな母は、結婚して縁づいた家で親戚関係に悩むことになった。私の祖父はとても気象が荒い人で、気の弱い父はなにかにつけ怒鳴られていた(それなりに理由はあった

          選択肢

          年齢のこともあり、もうすっかり、子どもを産むことが自分の人生には起こらないと思っている。もちろん、もっと若い頃は「子どもを産んで育てたい」、と思ったこともある。そんな考えを手放してから数年経ち、2年前に生まれた姪っ子をかわいがっている。 先日、4人の子どもを産んだ幼なじみMが、彼女の2歳になる末っ子を連れて遊びにきた。やんちゃな末っ子は常に動き回り、片時も目を離せない。高齢出産にもかかわらず、Mは自宅での分娩を選び、無事に新しい命をこの世に送り出した。 きっと最後の育児だ

          運転

          私は運転が好きで、腰さえ痛くならなければ、何時間だって運転できると思っている。運転中はいろんなことを考えるのにもってこいの時間だ。家で考え事をすると、なぜかいい方向へいかないのに、流れる景色を見ながらだと、前向きな気持ちになれる。 特にスピードがあると爽快感が増すので、時々、無性に高速道路を運転したくなる。急カーブもないからハンドルをそれほど切る必要もなく、軽くハンドルに手を乗せて、アクセルをいつもより少し強く踏むだけ。小さな軽自動車で、どんどん普通車を追い越していく。それ

          元上司のFさん

          先日、昔働いていた会社でお世話になった上司のFさん(女性)がうちへ遊びに来た。私たちは東京のとある外資系企業(スウェーデンに本社がある)で出会った。会社員として働くのはまだ2社めというペーペーだった私は、ExcelやWordなどのパソコンソフトをうまく使いこなすことができないものの、英語を活かせる仕事がしたくて、その会社の営業事務職に応募した。 面接では正直に、それほどパソコンに詳しくないことを告げたものの、その場ですぐに採用が決まってびっくりした。社内はゆったりとしたスペ

          元上司のFさん

          Sおばちゃん

          5日前、実家に帰省することになっていた。当日の朝、母から電話がかかってきた。「Sおばちゃんが、脳出血で倒れた」と母は言った。 Sおばちゃんは父の兄の妻で、私の伯母にあたる。伯父はSおばちゃんなしには生きていけないような人だ。飲み会や病院の送り迎えにはじまり、日々のちょっとしたことですらも伯母に構ってもらいながら過ごしている。実家は隣同士なので、窓を開けていると「おーい、S。これはどこに置けばよかっか?」などという大声が日常茶飯事で聞こえてくる。 Sおばちゃんはとても大らか

          Sおばちゃん

          古道具屋

          ずっと行ってみたかった古道具屋へ、やっと行くことができた。2カ月に一度しかオープンしないというその店(店主の自宅)は住宅街の中にあるという。初めて訪れる街なのでもちろん土地勘はなく、地図アプリに助けられながらようやっと到着した。 地図を頼りにしばらく路地をうろうろするも、店を見つけることができない。迷った挙句、近所のたばこ屋で道を尋ねると、「きっとあの家だろう」と言ってすぐ近くの民家を教えてもらった。 その家の前には看板もなく、玄関には農具が雑然と置かれていた。「本当にこ

          眠れない夜

          ここ数日、夜中に目が覚めてしまう。それも決まって2:00頃。トイレに起きて再び横になっても、眠りに戻ることができない。日頃、夕飯を食べたあと、ベッドに寝転んでしばらくネットで動画を見たり、本を読んだりしていると、20時半頃にウトウトしてくる。結局そのまま眠ってしまい、以前はそのまま朝までぐっすりだったが、最近はばっちりと目が冴えてしまう。 心当たりは、ないといったら嘘になる。先週、仲の良い友人Hの意外な一面を見てしまい、ショックを受けた。とてもショックだった。そのことが頭か

          眠れない夜

          クラクフのペンパル

          高校生の頃、毎月のように買っていた雑誌には、時々「ペンパル協会(みたいな名前だったと思う)」の案内が掲載されていた。協会の事務所へハガキを出して会員になると、毎月、海外のペンパルの住所が掲載された一覧表が自宅へ送られてくるという仕組みだった。 当時、海外への憧れが人一倍強かった私は、外国に友人を持てたら素敵だろうな、という思いに駆られていた。加えて、「ペンパル」という言葉の響きにも惹かれていたのだと思う。会ったこともない、外国の人と手紙を交換するなんて、考えるだけでドキドキ

          クラクフのペンパル

          予感

          少し前のこと。仕事が忙しくて数日家から出なかったこともあり、なんだかモヤモヤしていた。とはいえ、あまり出かける気にもなれない。できればゴロゴロして、映画でも観ていたい気分だった。しかし、このままではモヤモヤは増幅してしまう気がしたし、何日も家から出ないことがとても不健全なことに思えた。 結局、乗り気ではないまま、出かけることにする。いつもなら「気が乗らないときはやめる」ことにしているのだが、無理やりといった体で準備を始めた。ポツポツと小雨が降り始めた。 せっかくならと、ず