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シンガポールのインディア

以前、東京で暮らしていたとき、北欧に本社がある会社で働いていたことがある。仕事は営業アシスタントで、担当営業に頼まれた見積書や請求書、各種資料の作成、お客さんとの電話対応、海外とのやりとり(メール・電話)などが主な仕事だった。一番多く連絡を取る海外の拠点はインドで、インド人特有の訛りのある英語に慣れるまでには随分と時間がかかった。

入社して2年目のこと。上司から「営業アシスタントは秋にシンガポールへ出張」と言い渡された。少し特殊な業務もあったので、世界各国から同様の仕事を行うアシスタントがシンガポールに集結し、トレーニングが行われるという話だった。

日本はすっかり秋の気配を感じる頃だったが、シンガポールでは灼熱の太陽に照らされることになった。3日間の研修は、朝から晩までみっちりスケジュールが組み込まれていた。ランチもディナーもみんなで行動する。しかも会話は英語だけ。もともと一人でいるのが性に合っている私は、1日目からすっかり疲れ果てていた。

研修の後、1泊だけ延長して帰ることに決めていた。1人で心ゆくまで街を楽しみたい。とはいえ、飛行機の時間前に使えるのは丸1日のみだったので、どこへ行くか、何をするかは厳選する必要があった。

シンガポールには「リトルインディア」と呼ばれるインド街がある。オーチャードロードの北東に位置しており、「アラブストリート(アラブ街)」まで徒歩で行くこともできる。極彩色のヒンドゥー教寺院が出迎えてくれるエリアでは、ここがシンガポールだということを一瞬忘れてしまう。

その日は快晴で、とても暑かった。少しでも時間を有効に使いたいと、早朝にホテルを出て、リトルインディアへと向かった。どこからか香辛料の匂いが流れてくる。定食屋、アクセサリーの店、土産物屋、サリーを売る衣料品店などが立ち並び、店先では店主と思しき人たちが椅子に座って新聞など読んでいる。

店先に並ぶワゴンを冷やかしながら歩き、1軒の店の前で足を止めた。そこは雑多なものを売る小間物屋のようだった。薄暗い店内に入るとひんやりしていて、肌に心地よい。インド特有のアルミの弁当箱や皿、鍋などが雑多に置かれており、足元にもなにに使うのかわからない品がゴロゴロしている。値段も驚くほど安い。

「こんにちは。どれもお買い得だよ」と背後から声がした。振り返ると、薄黄色のシャツにチノパン、サンダルという格好の背の高い男性が立っていた。年齢は20代後半くらいだろうか。風貌はインド人なのだが、とても静かな雰囲気を湛えた人だった。

私は笑顔を返し、そのまま店を1周した。そして、アルミのプレートを2枚とスプーンを4つ、小さい鍋を購入した。お会計をするときも、彼は言葉少なだった。「はい」とビニール袋に入れられた商品を手渡され、受け取る。アルミ製品はとても軽く、スーツケースに加えても重量を気にすることはなさそうだ。お互いに「ありがとう」と言って店を出た。

その後も数軒の店を冷やかし、インドの布(とても鮮やかなブルーと淡いピンクに染めてあるもの)も購入した。サリーを試着しないかと声をかけられたが、さすがに買うつもりはないので断った。昼はとっくに過ぎていた。空腹を覚え、近くにあった南インドの定食屋に入った。

ここ数日、シンガポールの名物はたくさん食べたので、今日はなにか違うものを食べたい。バナナリーフにのったボリュームたっぷりの定食(ミールス)を注文したところで、斜め前の席に、先ほどの小間物店の男性が座っていることに気づいた。彼はとうに気づいていたようで、視線が合うと、少しはにかみながら「やあ」というふうに手を挙げた。

そして、私たちは一緒に食事をすることになった。

彼は店で受けた印象そのままに、とても穏やかに話す人だった。私の中のインド人のイメージを、見事に覆してくれた。彼は南インド出身のようで、懐かしい故郷の味を楽しみに、週に1度はこの店を訪れると言った。「実は、来月結婚するんだ」とも言い、財布から婚約者の写真を取り出した。とても美しい人だった。

彼女は故郷で小学校の先生をしているが、仕事を辞めてシンガポールに来てくれること、一緒に暮らす家を探していることなどを教えてくれた。彼はとても幸せそうで、話を聞いているこちらまでなんだかうれしくなる。彼女とのなれそめや結婚を決意したときのことなどを聞き終えたあと、「おめでとう」と伝えると、彼は「ありがとう」と返した。

「シンガポール滞在はいつまで」と聞かれたので「今夜まで」と答えると、「よければ、僕に案内させてもらえないだろうか」と言われた。「うちの店で買い物もしてもらったしね」と付け加える。彼の話し方や仕草から信頼できる人のように思えたので、せっかくならとお願いすることにした。仕事が終わる17:30に、彼の店の前に集合ということになった。

約束の時間の5分前に店に着くと、すでにシャッターは降りていた。彼は店の前で誰かと電話で話していた。私を見つけると「僕のフィアンセだよ」と言って、電話を手渡そうとする。どうしたものかと一瞬迷ったが電話を受け取り、挨拶をした。彼女は電話の先で笑っていて「シンガポール最後の夜は、ぜひ彼に案内してもらって」と、透き通るような声で言った。

彼が連れて行ってくれたのは、ガイドブックには載っていないような場所ばかりだった。地元の人が集まる活気ある店で食事(またもインド料理)をし、彼の友人を紹介してくれた。1人はインド人の男性、もう1人はオランダからきたという女性だった。私たちは少しお酒も飲み、夜のシンガポールを思う存分、満喫した。

24時間営業の巨大なスーパーマーケットでお土産も購入できた。私が地元の人にはけっして珍しくない歯磨き粉や洗剤などに興味を示していると、彼は「不思議な人だ」と笑っていた。

日付をまたぐ頃、彼はホテルの前まで送り届けてくれた。私は「思いがけない出会いで、こんなに素晴らしい時間を過ごせたことに感謝している」と伝えた。彼はにっこりと笑い、「こちらこそ」と言った。私たちはメールアドレスを交換して別れた。もう二度と会うことはないだろうと、思いながら。

翌月、彼からメールが届いた。幸せそうに笑う彼と彼女の結婚式の写真が添付されていた。私にとって、シンガポールはインドを強く連想させる場所となった。






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