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流通手段論はリフレ派・MMTという幻想を破壊する


マルクスが分析する貨幣には、商品流通における「流通手段」としての機能がある。

流通手段は、交換過程における諸商品の間で生じる「使用価値と価値の矛盾」を解消しない。だが、貨幣の流通手段上の機能によって、「矛盾の運動を両立可能にする形態」を弁証法的に生み出すと、マルクスは言う。
すなわち、商品と商品の交換には「使用価値と価値の対立」という致命的な矛盾を伴うが、ここで要請される流通手段としての貨幣が矛盾を両立させた、より高次元の経済形態を生み出す。資本主義的な「物流」の成立である。

順を追って概念整理していこう。商品交換(商品-商品)を実現するには「貨幣」が必要だ。
なぜなら、商品に内属する2つの要素である使用価値と価値は対立するからだ。商品所持者は使用価値を欲求するため、あらゆる商品と交換できない。商品は価値を望むため、あらゆる商品と交換できる。したがって、使用価値が、価値を制約する。すると商品交換が成り立つ事態が、極めて稀になってしまう。そこで、社会習慣的に「貨幣商品」が要請されるわけだ。

貨幣が成立し、貨幣との交換比率である「価格」をつけて市場に現れた商品は、その価格を実現して、貨幣に転化しなくてはならない。
言い換えると、W-G-Wという変態を経由する。(Wは商品、Gは貨幣を表す)

この時、商品所持者は「売り手」として、自分の商品を売らなくてはいけない。これは、W-G、すなわち「販売」として、商品変態の前半部分に当たる。しかし、商品変態はこれで完結しない。もともとは「商品-商品」という商品交換形態だったからだ。そこで、販売に対しては後半部分に当たるG-W、すなわち「購買」によって、この変態は完成されなくてはならない。

このように商品変態は「W-G-W」であるが、商品所持者の行為は、購買のための販売=「買うために売る」となる。この社会的行為は、資本制における、もっとも基本的で日常的な経済活動だろう。

商品販売は、その商品に対する欲求をもった貨幣所持者に、その価格に表象されている貨幣と引き換えに、それと譲渡する。そしてそれは商品にとっては「命がけの飛躍」と呼ばれるリスクを伴う。なぜなら、商品は売れなければ、商品ではなく、ただのゴミなってしまうリスクがあるからだ。すると、ゴミと化した商品に注ぎ込まれた労働も無意味になる。命がけの飛躍の成否は、それぞれの個別的な商品生産とは独立して、自然発生的・無政府的に構成されている社会的分業システム、すなわち、市場に委ねられている。
しかし、W-G=販売を完遂すると、商品は、その商品形態から脱皮して、商品価値は貨幣形態に変態する。
価値形態論にあるように、貨幣とは、一般的等価形態に配置される商品であり、ありとあらゆる商品に対する「直接的交換可能性」が与えられている。貨幣は、常に、この交換力を発動して、任意の商品に転化する。貨幣から商品への変態の過程がG-W=「購買」である。購買は、販売のような「命がけの飛躍」という困難を伴う過程ではない。買おうとする商品だけが、ただ陳列棚にあれば全く問題ない。
当たり前だけれど、W-G=販売には、G-W=購買が対応する。このG-Wの「G」は、すでにW-Gを経て、”””使用価値から脱皮した””” ある商品の価値の姿勢である。したがって、このG-Wは商品の第2の変態と言える。
このように1つの商品の変態は、決して他の商品変態とは切り離せず、むしろ、規則正しく構造的に絡み合っている。購買と販売。販売と購買。常に、1つの過程は、二重の過程にある。つまり、その過程は、商品所持者の視点からは販売であり、貨幣所持者の視点からは購買である。

さらに、1つの商品の変態「W-G-W」には、4つの視点があり、 3つの内的要素で構成される。
商品と、それの価値姿態として、他人が持つ貨幣とが向かい合う2つの極をなして、商品所持者と貨幣所持者は向かい合う。商品が貨幣に転化すると、この貨幣と、それの使用の姿態として、他人が持つ商品とが向かい合う二つの極をなして、貨幣所持者と商品所持者とが向かい合う。図を見て欲しい。

▼図.変態の列/商品流通
⤵︎が指示するのは「G」

W0 - G - W1
    ⤵︎
  W1 - G - W2
      ⤵︎
    W 2- G - W3
        ⤵︎   
      W3 - G - W4
          ⤵︎
        W4- G - W5
            ⤵︎
          永遠につづく

第1列の売り手は、第2列では買い手になり、第2列では彼にたいして、第3列の商品所持者が売り手として相対する。
商品変態の、このような規則正しい絡みあいの総体を「商品流通」と言う。

物々交換では、自分の労働生産物を引き渡すこと、それと引き換えに他人の労働生産物を受け取ることが直接に一致しているが、対照的に商品流通では物々交換のうちにあるこの2つの契機が、時間的・場所的に異なる販売と購買という二つの行為に引き裂かれてしまっている。
ここでは、この2つの行為は、異なった場所で、しかも時間を隔てて行なわれることができる。こうして商品流通は物々交換の時間的・場所的制限を打ち破って、人間の商品の生産と消費の「社会的な物質代謝」を発展させていく。

商品の変態は、貨幣を、買い手から売り手の手元へと絶えず流れさせていく。誰の目にも見える貨幣のこの運動を、商品流通と区別して「貨幣流通」と呼ぶ。貨幣流通は同じ過程の不断の繰り返しとして現象する。つまり買い手の手元にある貨幣は、いつでも、売り手の手元にある商品に対して購買手段として現象して、商品の価格を実現する。貨幣は購買手段としての機能を実現しながら、商品所持者の手を次々に移っていくことを絶えず繰り返している。貨幣流通は、諸商品の変態の絡み合いの結果論的な「表現」であり、商品運動の帰結であるにもか
かわらず、貨幣の運動形態に目を奪われると、あたかも、購買手段としての貨幣が商品を流通させているかのように錯覚してしまう。
何かを買うためには何かを売ることが必要である。いかなる購買も販売の結果である。つまり、商品変態が行われている限り、貨幣運動は、常に商品によって、別の商品を交換するプロセスを媒介する以上の機能を持たない。言い換えると生産活動と消費活動を媒介する。
したがって、生産活動と消費活動がなければ商品は流通しない。すると実際には、貨幣もまた流通しない。
ところが、貨幣は直接的交換可能性を有する特別な「物象」であるため、貨幣所持者の購買の意志があって初めて売買が成立する。そのため、個々の商品売買に注目すると、売買の主導権は常に貨幣の側にあるということになる。こうして貨幣を購買手段として使用することによって売買が成立して、この結果として商品流通が実現するという外観が成り立ってしまう。
ここから、市場に貨幣を流通させると商品流通が活性化することができるような幻想が発生する。実際にはどれほど貨幣が強力な力を持っていようとも、それが流通するのは、商品流通が先行するからだ。商品流通は常に現実の生産活動と消費活動の結果にすぎない。
したがって、商品流通を実体経済から切り離して、貨幣の力によって思うがままに動かせるものと考えるのは誤りである。市中の貨幣供給量の増量と経済成長を結びつけるリフレ派も、MMTも、日本の社会経済にとって無用の産物である。

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