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マルクスは資本論を大成した。そして、資本論の中で、彼は、近代社会を支配する「資本の運動法則」を明らかにしてみせた。
しかし、マルクスは、資本主義の変革にあたって、資本をあまり重視していない。奇異なことに、商品(W)を重視したのだ。ふつう、人々が注目するとしたら、貨幣(G , G=W)とか、資本(G-W-G)とか、生産手段(Pm)だろう。
それでも、マルクスが何よりも執着したのは商品(W)である。一体、なぜなのだろうか。今回は、マルクスが、商品の分析を最も重視した理由を通して、商品の正体に迫っていく。

商品形態論


商品は、資本主義という複雑系を解明するために、どうしても「一番最初に」理解しなくてはならない、「最も基礎的な」経済的カテゴリーである。
このことに逆らって、商品に対して無理解の状態で、貨幣や資本の分析に進んでも、絶対に、それらの「経済的カテゴリー」を理解することはできない。
なぜなら、貨幣も、資本も、「商品を前提にして」ようやく成り立つ経済概念だからだ。

こうした経済的諸概念は、相互に、重層的に、「一定の社会的連関」を織り成して資本主義を構成しているので、理解するにも論理的な順番が存在している。いわば、プラモデルのようなものだ。適切なパーツを、適切な部位に、適切な順番で組み合わせなくては、決して完成形に辿り着くことはできない。

このようなプラモデルの事情と同じように、「資本主義」という完成形に辿り着くためには、いきなり「儲け」に相当する「利潤」「利子」「地代」の分析から入るのではなく、それら高度な経済概念が前提する「資本」の分析を完遂しなくてはならない。しかし、資本の分析にあたっても、資本が前提する「貨幣」の分析を完遂する必要がある。しかしまた、さらに貨幣の分析には、貨幣の手前にある「商品」を分析する必要があるのだ。資本主義の構成にとって、商品は、最も基本的で、最も前提的で、最も重要な「経済形態規定」にあたる。ここに、マルクスが商品論を重視する理由の一つがあるのだろう。

ところで、何気なく使われている「分析」という言葉だが、分析は「実践的唯物論」の視点から出発することを忘れてはいけない。
実践的唯物論に貫徹する「問いの形式」は、「〜とは何か?」ではない。「商品とは何か?」…マルクスの時代では、その答えは既に存在していた。貨幣と交換される「財」とか、「値札」が付与された労働生産物とか。答えは既に出ている。「〜とは何か?」では、現実の資本主義を明らかにすることはできない。そのような事情から生まれた「実践的唯物論」では、問いの形式は「いかにして、〜が成り立つのか?」となる。この視座が一貫する資本論では「いかにして商品が成り立つのか?」という問いから出発して、商品という「経済形態規定」を解明して、次に、商品を前提にして成り立つ「貨幣」を、商品と貨幣の連関を前提にして成り立つ「資本」を分析していく。いずれも、「いかにして、経済形態規定は成り立つのか?」という視点で貫かれている。

このうち、商品章では、資本論全体を貫徹する唯物論的図式 ( いかにして〜は成り立つのか?) を力強く明晰に示している。

価値論


商品章は、まさに「価値法則の論証」になっている。

価値法則は、「法則」とあるように壮大な語感を含み、マルクス主義者から多くの誤解や誤読を招来した。
しかし、今こそ誠実な態度で、マルクスのテクストに立ち返ってみると、本来は極めてシンプルな概念だと理解できるはずだろう。

価値法則とは、「資本主義で、社会全体の限られた労働が、おおむね均衡して配分するべく規制的に働く経済機制」のことである。

正確さを犠牲にする代わりに、分かりやすさを優先して言えば、「社会が物質的に再生産するためには、有限な総労働が社会全体にバランスよく配分される必要があり」「しかし、総労働の社会的配分が、人間の意識により決定できない社会に移行したため」「代わりに、労働の社会的配分の決定が、人間の無意識の領域(≒社会構造)に移行して作動する経済的メカニズム」のこと、である。

この経済的メカニズムが、労働の社会的配分の困難に等しい経済事象に直面するたびに、絶えず経済事象の背後から作用して、規制して、さまざまな「現れ方」をしながらも、必ず、労働の社会的配分を実現するべく「貫徹する」。
これが、価値法則だ。

ところで、価値法則が作動しない社会と価値法則が作動する社会を規定するのは「生産関係」である。社会を物質的に再生産する要件である「総労働の社会的配分」を、人間じしんが意識的に決められる生産関係では価値法則は作動しない。これには、家父長制に基づく「共同体生産関係」が挙げられる。要するに「大家族」のことだ。家族共同体では、父、母、長男、次男、長女、次女といった人格関係を基盤にした生産関係であるため、「事前に必要労働を感知して、人間の意思決定によって」、総労働(総体力)を適切な生産へ支出して、均衡的な労働の社会的配分が実現できる。例えば、事前に必要労働を感知した母は家族のために料理と洗濯をする、父は家族のために必要物資の供給を行う、長男が次男のために勉強を教えて、父が娘のために用具を修理する。ここでは、有限な総労働の配分は人格関係に基づいて、バランス良く各生産部門に配分されることによって、大家族社会の物質的再生産は実現している。

他方で、このような共同体的人格関係を失った「商品生産関係」は、価値法則が自ずと作動してくる。商品生産関係では、先の大家族や士農工商のような人格関係を喪失して、「他人」同士として疎遠に分離した「私的個人」からなる生産関係のことだ。この生産関係では、まず、事前に必要労働を感知することはできず、それゆえ社会全体の総労働の配分を「人間の意思決定」によって行うことはできない。そのため「父の娘のための労働」という労働形態は決して成り立たない。というのも、私的個人は、必要労働を感知できないばかりか、私的な利害関心にしたがって「なるべく自分が損しないように」「私的に」労働するだけだからだ。こうした「私的労働」による生産関係の中に、人間の意思決定による労働の社会的配分のチャンスが入り込む構造的余地など、どこにもない。各人は、自分のために私的利害にしたがって労働・生産を行うからだ。

してみると、私的個人から成る「商品生産関係」では、有限な総労働は、適切な生産部門に、適切に配分することができず、たちまち社会の物質的な再生産は立ち行かなくなってしまうように思われる。「私的労働」と「労働の社会的配分」は原理的に矛盾してしまう。

しかし、現実の資本主義は、厳然として、尋常ならざる強度を持って成り立っている。あの矛盾は奇妙なことに弁証法的に「両立している」のだ。なぜか。人間の意識から遊離した「総労働の社会的配分の決定」は、ついに人間の無意識の領域に移行して、「経済機制」(≒社会関係)を論理必然的に生成するからだ。

人間が社会的意思の伝達が行えるよう「文法構造」が無意識に生成したように、あるいは、家族社会が再生産するべく「親族構造」が無意識に生成したように、社会の存立のため、人間の意識の次元ではなく、人間の振る舞い(無意識の行為)という抽象的な次元において、価値法則は実現する…。

「はじめに行動ありき」(資本論 第1巻)

「彼らはそれを知らないが、それをやっている」(同上)

こうして、「裏で」社会的総労働の均衡的な配分が実現するべく価値法則が暗躍して、「表に」ついに「現れた」のが、労働が転形した「価値」であり、価値が内属した労働生産物である「商品」であり、「商品と商品の交換関係」なのである。 ( ※なぜ、労働が「価値」に転形して、労働生産物に価値が内属して「商品」になることで総労働が配分するのか、そのメカニズムについては「労働価値説の有罪を晴らしたい」の記事で記述した)

実は「価値」も、「商品」も、論理必然的な価値法則の一つの「現れ」である。なぜなら、どんな社会であっても、その社会の物質的再生産のためには、有限な総労働の社会的配分が必要不可欠だからだ。ここから私的個人から成る生産関係では、総労働の配分を意識的に決定できないので、人間の振る舞いの次元において、配分機制が生成してくる。すなわち、価値法則が貫徹する。こうして、労働は「価値」として現れる。労働生産物は「商品」として現れる。人間と人間の生産関係は、商品と商品の交換関係として現れる。こうした諸々の「経済事象」(≒現象形態)は、まさに「価値法則の貫徹の帰結」と言えよう。

商品章では、価値法則の必然性が論証されて、価値法則の「現象形態」として、「価値」「商品」「商品と商品の交換関係」が明らかにされた。商品は価値法則の「現象形態」に過ぎなかった。そして、商品章で暴露された「価値法則」は、もちろん資本主義全体を貫く。どんな社会だって、総労働の社会的配分は実現されなくては成り立たないからだ。

このことについて、マルクスは「クーゲルマンへの手紙」で、価値法則の必然性を強調して述べている。

「かわいそうにこの男には、もし私の本に「価値」にかんする章が一章もないとしても、私がやってみせた現実の諸関係の分析が、現実の価値諸関係の証明と実証を含むことになるという点がわからないのです。価値概念を証明する必要がある、などというおしゃべりができるのは、問題とされている事柄についても、また科学の方法についても、これ以上はないほど完全に無知だからにほかなりません。どんな国家でも、一年はおろか、二、三週間でも労働を停止しようものなら、滅びてしまうことは、どんな子供でも知っています。さまざまなニーズに対応する生産物の量には、それぞれに社会的総労働の一定量が分配されるはずだとということも、どんな子供でも知っています。社会的労働が一定割合で配分されているということは、社会的生産の形態によらずあたりまえのことで、単にその現われ方が異なるだけのことというのも、自明のところです。自然の諸法則を消し去ることはできません。歴史的にさまざまな状態のなかで変わり得るものは、それらの法則の表れ方の形態だけなのです。そして、社会的労働の連関が労働の個々の生産物の私的交換として現れる社会状態において、労働が配分された形態、それがまさに生産物の交換価値なのです。」(クーゲルマンへの手紙)

こうして、商品章の中で、論証され、明らかにされた「価値法則」によって、一挙に霧が晴れたように、以降のマルクスの議論が明瞭なものとなる。すなわち、「商品」と同じく、「貨幣」も「資本」も、その他経済的カテゴリーもまた、背後に「価値法則」が絶えず作動して、規制的に働くため、資本主義上の、とりわけ経済学で取り扱われる「経済的カテゴリー」は、一様に価値法則の「現象形態」にすぎないことが判然とする。

物象化論


資本主義を乗り越えるヒントが、貨幣でも、資本でもなく、商品にこそ隠されている。

キーワードは物象化だ。

物象化とは、端的に言えば、「物が、一定の社会関係から、社会的な力を与えられた形態として成り立ち、現象すること」である。
ここから言えるのは、物象化を前提に成り立つ資本主義社会では、人よりも物に力がある社会、物が人を支配する転倒した社会だと言える。

それが証拠に、今日だって、人々は物価に振り回されている。あるいは、株価に一喜一憂している。労働者は低賃金に悩まされて、資本家は売上に悩まされている。国家もまた常に経済成長率に振り回されている。また、人々は働いていようが働いていなかろうと、自分じしんの市場価値に苦しんでいる。だからこそ、自己啓発、資格勉強、投資教育、朝活、コスパ主義、タイパ主義、学歴主義が流行しているのだろう。

それはともかく、資本主義のもとでは、商品、貨幣、資本をはじめとする「物」によって、人は振り回されているのだ。ここには、人が物を使うのではなく、物が人を使うという転倒が起きている。だからこそ、労働者は生きるために賃労働に迫られて、資本家は搾取に駆り立てられる。社会は自然環境の破壊を自覚していても、資本主義から抜け出せない。
物が人を支配するからだ。

もちろん、この転倒は自然現象ではない。人と物の主客転倒の背後には、人ではなく、物に、社会的な力を付与する「社会関係」が横たわっている。つまり、物象化を引き起こした張本人たる社会関係が存在しているのだ。

ところで、マルクスは、物に与えられた社会的な力のことを価値と呼んでいる。もちろん、価値を規定する内容は「抽象的人間労働の対象化」である。
一体、なぜ、労働が価値として現象してしまうのだろうか。

どんな社会であれ、その社会の物質的な再生産のためには、有限な総労働の社会的配分が実現する必要がある。前近代社会では、この重大な社会的配分を、「身分秩序」「人格関係」を基盤にして、事前に必要労働を関知して、人間の意思決定によって実現していた。要するに、「王と臣民」とか「領主と農奴」「父と息子」「武士と百姓」のように、人が、人に社会的な力を与える社会関係が支配的な社会だったのだ。この社会関係を基盤にして、事前に必要労働を関知して、人間の意思決定による「総労働の社会的配分」が実現していた。前項で例として挙げた大家族の労働形態を思い出してほしい。

しかし、前近代に支配的であった「身分秩序」や「人格関係」が喪失すると、事前に必要労働の関知ができなくなり、人間の意思決定によって、有限な総労働の社会的配分ができない社会(生産関係)となる。すると、社会の物質的な再生産ができなくなってしまう…。そこで、人間が、無意識でも、有限な総労働が、社会的に配分を可能とする「社会構造」=(社会関係)が生成する。価値法則が、作動するのだ。

この社会構造こそ、「物に社会的な力を与える社会関係」なのである。つまり、物象化を必然的に引き起こす社会関係なのだ。具体的には、「有限な総労働の社会的配分」を実現するべく、無意識に人間が労働生産物を「価値物」(≒商品)として扱い「交換関係」を取り結ぶ。
ここで、何よりも重要なのが「社会全体の有限な総労働から支出された労働」として、労働生産物に「価値」が転形して、労働生産物は商品形態を受け取る点だ。(※ ちなみに、社会的な力である価値が内属した労働生産物のことを「商品」と言う )

労働生産物は「社会的な力」を獲得した通用形態である商品に物象化した。こうして労働生産物は、商品として、価値という社会的威力を強く発揮していく。人ではなく、物が力を持つ転倒した商品社会が始まる。ここから、価値物である商品は「商品語」を命令して、論理不可避的に、人間の無意識の実践うちに「貨幣」が実現する。富の一般的形態としての貨幣は、その際限のない使用価値ゆえに、人格に「黄金欲求」(価値に対する飽くなき欲求)を植え付けてしまう。すると商品と貨幣の織りなす市場において、資本の価値増殖運動が開始する。
要するに、商品が成立する時点で、論理必然的に貨幣の成立を引き起こして、双方の物象が、やがて、資本の駆動を招来することになるのだ。

してみると、商品論では、人と物の転倒である物象化を引き起こす原因論を扱っていると言えるだろう。もっと言うと、物象化という転倒関係は、貨幣の存在も招来して、商品と貨幣から資本を招来することから、究極的には、商品こそが、また商品を成り立たせる社会関係こそが、資本主義を招来する要因となっているとも言える。したがって、自ずとマルクスが商品論を重視するのは当然だろう。

物神化論


商品形態論、価値論、物象化論と、今までの議論を踏まえて、商品は、もっとも重要な経済概念だと言える。
なぜなら、商品は、資本主義を解明し、乗り越えるために必要不可欠な概念だからだ。にもかかわらず、当時、マルクスを除く経済学者や社会主義者の商品に対する「思い込み」によって、商品は生まれた時から商品であって、単なる自然物として自明視されてしまっている現状があった。(今もそうだけれども) これでは「資本主義を変革する」と言っても、どこに手をつけたら良いか、対処療法が分からないことになってしまう。商品の解明なくして、資本主義の解明なしだ。ここに、マルクスが度々商品論を強調して力説する所以があるのだろう。

商品は、一見すると、何の変哲もなく、哲学的疑いの余地もなく、まったく「自明」で「平凡」である。しかし、マルクスは、実は、商品の分析によって、「いかに商品が複雑な論理構成を持って成り立つ概念なのか」分かると述べている。

「商品は、一見、自明な平凡なものに見える。商品の分析は、商品とは非常にへんてこなもので形而上学的な小理屈と神学的な小言でいっぱいなものだということを示す」(資本論 一巻)

今まで行ってきた詳説を通して、「商品」が非常に複雑な論理構成を内包して、それゆえ、いかに捉え難い概念なのかは判然としているはずだ。ーー「いかにして商品が成り立つのか?」その説明には長大な文章を自ずと要するほどだった。

まず、商品形態論では、商品が、資本主義を構成する あらゆる経済概念の前提にあることが論証された。
次に、価値論では、価値および商品が価値法則の「現象形態」であるということ、すなわち、社会的総労働の配分機制に対する諸連関によって成り立つ概念であるということが論証された。
物象化論では、価値法則の作用から生成する社会関係によって物象化した労働生産物こそ、商品であることが判明している。

しかしながら、日常世界では、商品の発生論理である「私的労働でありながら社会的総労働の配分が成り立たなくてはならないという矛盾した生産関係」も、「そこから作動する価値法則によって生成する社会関係」も、何もかも目で捉えることができない。たとえば、眼前にある商品をじっと凝視していても、あるいは、スーパーやコンビニなどで、ひたすら繰り返される商品と貨幣の交換を観察していても、知覚的には、決して「商品がいかにして成り立つか?」など、把握することはできない。商品を商品たらしめる「社会関係」は、人間の視界からは既に捨象されてしまっているためだ。
商品は、すでに商品だからだ。

したがって、このような自明で平凡な商品形態から、「商品は商品だ」という自明的トートロジー、物神崇拝が生まれてくる。
また、物象化によって、人と物の関係が転倒した、人間より商品中心の社会にもかかわらず、人は「商品を商品だ」と確信して物神崇拝することによって、転倒関係自体を擁護することになる。

すると、資本主義を変革するどころか、一向に変革する思考的余地はなく、何なら分析の余地も残されておらず、むしろ「商品生産は、自由な人間の本性に従った尊い活動だ」という非科学的な神秘化によって、無自覚の信仰が発生する。物象に対する盲信が物神崇拝と呼ばれる所以だろう。近代社会は、神ではなく、理性でもなく、物が支配する社会と言えそうだ。

かくして、物神崇拝は、「物が人を支配する」という支配-非支配の社会関係を、人間が無自覚のうちに強く堅持してしまうイデオロギーとして機能する。もっと言えば、物神崇拝は、資本主義を維持する正当化装置として社会機能を果たす。さらに、物神崇拝は、近代市民社会の原理にあたる所有権、自由、平等といった観念に姿を変えて、資本主義を正当化して、搾取や不均衡の実態を隠蔽する。ここでは、詳説しないが、近代市民社会では、人格は、商品の所持者、貨幣の所持者としてのみ現れて、「自由」に商品や貨幣の「社会的な力」を行使して、物象の担い手として「平等」であり、物象を排他的に「所有」する。(だからこそ、資本家による労働生産物の所有が正当化されて、労働者には疎外労働が強いられて、資本による搾取が可能になる。このことは搾取論、剰余価値論の論点となる)

物神崇拝は、経済学者や社会主義者の内面に深く侵食しているため、彼らが関与した「経済学」「社会主義思想」は、並べて一様に、物神崇拝の上に成り立つ論理体系となっている。
つまり、これらの研究は、商品も、貨幣も、資本も、市場も、前近代社会の柵を突破した先に、人間本性から生まれてくる尊い自然物であるという、誠に宗教的な信仰から出発しているのだ。

こうして、経済学は「現象形態」の因果関係だけを取り扱う、きわめて空疎な宗教的学問として、一方で、社会主義は、商品生産を残しながら「貨幣廃止」「貨幣の制御」「生産手段の国有」などを訴える不毛な「資本主義延命思想」として流行してしまった。双方ともに「商品生産」を自明視して、人間本性から生まれてくる尊い自然物だという非科学的な宗教の上に成り立つ議論となっている。つまり「資本主義は人間本性から生まれてくる」「人間の解放された姿として、資本主義がある」と。
実に、宗教じみていることが窺えるだろう。

しかし、資本主義が「歴史的形態の一つ」であって、まったく「人間自然物ではない」ことは「商品論」によってこそ暴露されるのだ。
マルクスは、経済学を標的として資本論の副題に「経済学批判」と記し、既存の社会主義については「空想的社会主義」と批判した。

マルクスが「商品分析」を重視した理由は、今や、明白である。

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