物象化論の整理
資本主義社会の最大の特徴は、人間が「モノ」に頼ることなしに経済活動が行えないところにある。
たとえば、貨幣。私たちは貨幣というモノがなければ商品を手に入れることができない。商品が買えなければ、私たちは自給自足を営むか、さもなければ死ぬしかない。私たちの生存を左右する貨幣は確かに物質ではあるが、ただのモノではない。
貨幣ばかりではない。私たちは商品に頼りきりである。それは、私たちが生活していく上で必要なのは勿論のこと、もっと根本的な問題として、私たちは自分たちが生産する「商品」をアイデンティティとして互いに関係する。コンビニ店員、八百屋、銀行員、美容師、派遣社員、労働者、資本家、社会人、ニート、労働力など。
資本主義社会を生きる私たちが生活を送るには、私たちもまた「モノ化」しなくてはならない。
マルクスは、この「モノ化」を物象化と呼んだ。
物象とは、資本主義の根幹にかかわる概念である。今回は、この物象を探究の対象としてマルクスの「物象化論」を整理・解釈していく。
資本論では、マネーの動態や市場の分析にいきなり入らずに、その前提から始める。
資本論では、資本主義社会にとって最も根本的で、前提的で、例えるなら人体にとって細胞にあたるぐらい基礎的である価値の基本形態、すなわち「商品」について徹底的に論じている。言い換えると、弁証法的唯物論者マルクスは「物」の動きから議論を始めているのだ。
物象化は、こうした議論と不可分の概念になる。
したがって「物象化」を理解するために、まずは、商品という「現象」がいかにして成り立つのか を明らかにしなくてはいけない。
商品とは、なにか?
商品とは何か。端的に言えば、労働生産物が取る独自な社会的形態である。
というのも、商品を構成する使用価値は、他人のための使用価値、つまり「社会的使用価値」でなければならない。
他方、商品のもう一つの構成にあたる価値は、いうまでもなく社会的に規定される属性である。価値は、私的労働化した社会において「抽象的人間労働の社会的性格」が労働生産物に内属した現象であるためだ。
したがって、商品とは「社会的形態」となる。
商品は、労働する諸個人が生産のなかで取り結ぶ、「ある生産関係」において、労働生産物が取る必然的な形態である。ここから商品と商品が交換関係を取り結び、この商品関係の中から必然的に貨幣形態が生まれてくる。
このような生産関係をマルクスは「商品生産関係」と呼ぶ。この議論から解明される商品とは、商品生産関係のもとで、労働生産物が必然的に取る社会的形態なのである。
しかし、なぜ、労働生産物は「商品」という社会的形態を取るのか?
どんな社会でも、総労働の社会的分割(社会的分業)と総生産物の社会的分配が行われなくては成り立たない。
商品生産以外の生産関係では、社会的分業と社会的分配の方法として、人間の意志や人格関係によって事前に意識的に決定されていて、それらの様式は明白だ。もちろん、商品生産関係が支配的である社会の場合にも、社会の総欲求に対応する社会的分業のシステムが確立しなくてはならず、また総生産物は各欲求に応じて社会的に分配される必要がある。
しかし、商品生産関係が支配的である社会では、とても奇妙なことが起きているのだ。
すなやち、社会的分業および社会的分配が必要であるにもかかわらず、労働する諸個人は、まったく自分の自由意志に基づいて、自分の判断にしたがって、自分自身の責任、自分自身の計算によって生産している。考えてみれば、これは非常に奇妙なことだ。誰が何の労働・生産を行っているのか、お互いに知らない。にもかかわらず「分業」が成り立っている。彼らの労働力の支出である「労働」は、並べて一様に、各自の「私事」として行われる「私的労働」だ。だから、労働そのものとしては、社会的性格はどこにもない。したがって、私的労働による生産物もまた彼らが各自で私的に取得して、また彼らは、それぞれの生産物が各自に帰属することをお互いの私的所有として法的に承認する。(※この議論はマルクスの交換過程論へ。ここでいう法は法律ではない。法は法律に先立つ。さらに商品(物象)は法に先立つ。)
個人個人が、それぞれバラバラな私的な労働を行い、さらに私的労働によって産み出された生産物もまた私的所有される。
このような「労働の私化」という前提を持つ商品生産社会で、どうやって社会的分業システムが成り立つのか?
ここでは、私的労働が社会的分業システムとして対応するべく、商品生産者は彼らの生産関係を直接的に「人間と人間の関係」として取り結ばない。それどころか、ある「回り道」を経由する。つまり、彼らの生産物に注がれた抽象的人間労働を「価値」として表示した「商品形態」を取り、商品と商品の関係を取り結ぶ。
つまり「物的形態」と「物的形態」として関係を取り結ぶ。これが「物象化」の始まりである。
補足しておくと、私的労働によって生産された生産物が商品として市場に登場しても、もし他の商品との交換が成立しなければ、この私的労働は社会の欲求を満たすことができない。だから、この労働は「社会労働」になることなく「閉じた私的世界」の中で自己完結して死んでいく。商品は市場で使用価値があるとみなされて売れなくては商品足り得ない。(命がけの飛躍)
以上の議論は、物象化の原因論だ。少しまとめる。私的労働は、まさに「私事」であるがために、社会的事業である分業を担えず、社会的原理と私的原理は両者ともに矛盾するのではないか。しかし、この確かな矛盾は、私的生産者たちが、労働生産物を「価値が内属する商品」として、つまり物象として、互いに関係を取り結ぶことで弁証法的に両立可能になる。そうして構築されたのが「商品生産関係」だ。
話を進めよう。物象化は商品そのものに留まらない。「私的労働」と「社会的分業」の原理的矛盾により弁証法的に成立した商品生産関係において、私的労働の独自な社会的性格が、人間の目に現れるのは、交換過程(商品を交換する場)である。つまり、生産者たちの私的諸労働の社会的な接触は、彼らにとって、彼らが自分たちの労働そのものにおいて取り結ぶ関係としてではなく、人間同士の物象と物象の社会関係として現象してしまう。つまり、生産関係もまた物象化しているのだ。商品生産関係において、労働生産物が商品という社会的形態を取ることによって、彼ら自身の抽象的人間労働の社会的性格が労働生産物の対象的な属性である価値に転形する。すると、人間の視界には”””物象の社会的な自然属性„„„として反映する。したがって、彼らの総労働に対する社会的な関係は、彼らの外部にある諸物象の社会的関係として、反映されてしまう。
このように人と人の関係が物象と物象の関係として現象することを「物象化」と呼ぶ。
すると、抽象的人間労働の社会的性格は、労働生産物の価値性格として現象して、労働力支出の時間量は労働生産物の価値量として現象し、生産者の社会的関係は労働生産物の交換関係として現象する。
私は「物象」というのは、宇野学派のいう人間の外部にある「物」そのものでも「物的な性質」を意味するのでもないと考える。また廣松渉のいう間主観性から出発する「認識上の問題(物に見えちゃうよね?)」でもない。二人の議論は物象が成立するに至る決定的な過程を無視してしまっている。ここでは、久留間の議論が有効であろう。すなわち「私的労働」と「社会的分業」の矛盾から、人間が労働生産物と労働生産物を「商品」と「商品」の社会関係として取り結ぶことで、はじめて物象化するのだ。
物象とは、単なる「物」ではなく、人々の社会的関係によって、何かしらの「姿形」(=形態)が与えられて人々にとって社会的な意味を持つことで、人々の社会的行為の対象となっているものを物象と呼ぶ。
商品、貨幣、資本は、資本主義社会において最も基本となる物象である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?