パン屋日記 #50 シェフコンクール
ランチが落ち着いたタイミングで、
シェフにまかないのコーヒーを出しました。
賞味期限が切れて、
お客さまに出せなくなったものです。
シェフは「おいしい」と言いました。
おいしいわけないのにな、と思いました。
次の日は、
新人の子が練習で作った
キャラメルラテを出しました。
シェフは、「おいしい」と言って飲みました。
こんどは、
余ったゆずジャムを少量のお湯で溶かし
いっぱいの氷を入れて、
ゆずジュースにしました。
これは自信作だったので、
「じゃーん」
と口で言いながら出してみました。
シェフはやっぱり、
目の前で「おいしい」と言って
飲んでくれるのでした。
そんなシェフは、
歴代のコックさんでは
未だかつて見たことのないような
光の速さで、お料理を作ります。
うんと忙しいときも、
暇な時間にぽろっとオーダーが入ったときも
同じ速さで動きます。
時空が歪んだのかと思うほどの
高速アクションは
やはり少なからず
世界に影響を及ぼすようで、
一流シェフも
こんなに皿を割るのだと
人生で初めて知りました。
がしゃんがしゃんがしゃん
パリーン
カァーーーン
カランカランカラン
「シェフ、お願い……!」
シェフに聞こえないように、
坂下先生が言いました。
「落ち着いて……もう、
最高新記録は出たから……」
ドゴン
そうこう言っているうちにこんどは、
ゆで野菜が入った寸胴(ずんどう)を
洗いざらい床にぶちまけていました。
手伝いに行くべきか、
気づかないふりをするのがいいか
わたしたちはいつも、
究極の判断を迫られるのでした。
休み明けのシェフが、
顔にあざを作って出勤してきました。
「ころんだの?」とわたしが尋ねると、
「『のぼせ』です」とシェフは言いました。
きのう高熱が出て「のぼせ」になり、
あざができてしまったのだそうです。
「かわいそうに。
でも、昨日はお休みだったから
不幸中の幸いですね」
と、わたしが言うと、
「それが、昨日はシェフコンクールで、
そのためのお休みだったので大変でした」
と、シェフ。
(シェフコンクール?)
「へーっ、シェフ、
コンクールに出たんですか?」
と尋ねると、
こんこん、くしゅんと咳をしながら
「僕は、審査員です」と
シェフが答えました。
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