書きながら心のオアシスを保つ方法

とうとう、このNoteのPV(閲覧数)を見てしまった。

このNoteは、まだ駆け出しで、300弱であった。
となれば、ここは、地味な弱小Noterとして、思いのままに、いられるようだ。

さて、このNoteを立ち上げた理由を思い出そう。

他の作家さんが書いた記事に、ユーザーとして、いいね、を付けて応援したかったからだ。

Noteには、記事を書いてはいるが、それは、ブログで書けないモヤモヤを書きたかったからだ。
書き手として、モヤモヤが募るからだ。

一方ブログでは、はじめて大勢の人に読まれる経験を積んだ。
月間3万を超え、先月は6万も行っていた。これは想定以上で、この先の記事を書くか、どうするか、の岐路に立たされる。

(もともとは今くらいで終了する予定だったが、延長し、未来記事はまだ十分ある。)

ブログは、私の思っていたよりも成長してしまった。ときどき、私のコントロールの外に行ってしまう。
悩める人に、夜中とかに、ひっそり読んでほしいのに、ランキングが上がったり下がったり、落ち着かない。

嫁姑ブログをたくさん読んでいる人がフォローしてくれる。
なぜか好かれる。
私にとって、気難しい姑像とは、毒親と同じタイプの人間像に思える。
トピックスに選んでくれるアメブロも、たぶんそこがわかっている。

でも、旦那さんが、純粋に閲覧数を喜んでいた域を超えてしまった。
最近は、ランキングが下がると二人で喜んでいる。困ったなあ。

書き手である私は、まだ持ちこたえている。
ときどき殻にこもって隠れたくなる。
自分の器は、わかっている。
昔から物書きになりたくて、親の否定にめげずに書き続けたから。
たくさんの読者にさらされても大丈夫な頑丈な作りに造ってある(笑)

しずかで、純粋に生きられて、心の平安さえ保てれば、いいのだ。その状態があれば、どんな力強い言葉でも、勇気を与える言葉でも、書ける。

「毒親物なのに、暗くない。
明るい。
まっすぐ前を向いていて、純粋すぎるくらいだ。」

そんな文書が書けるのは、私が、義務で書こうという意識を手放した時に、文章が思い浮かぶからだ。ウンウン唸って書いているのではない。高評価を得ようとは思わず、ただ気持ちよく書いていたいからだ。たくさん書けるときもあれば、間が空くこともある。

私の心の秘訣はそこだ。

自分の心の純度を保つため、このNoteを作り、ブログを育てはじめた頃と同じような、新鮮な気分で、このNoteで過ごしている。

いいねは少ないからこそ、ひとつひとつがありがたい。

ここで純粋に書き物をしてから、その純粋なノリのままで、いたい。
そんな循環。

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