「なんとかする思考」の末路
私は性格が悪い。
だからこそ、自分の性格について思い悩む必要性がある。
肌に問題があるならば、肌について考える必要があるし
家庭に問題があるならば、家庭について考える必要がある。
それと同じように性格に問題があるならば
性格について考える必要性がある。
私という人間は多面体で色々な側面があり
その多くの側面について、同時に考える事は不可能である。
だからこそ、私は、その一面一面を取り出して見つめる必要性がある。
自分の性格について考える事の最大の難点は
既に問題があると思っている部分に関しては、既に何らかの対策を行なってしまっている事である。
自分が怒りっぽいと自覚があれば、怒りを抑制する方法を考えるだろうし、自分が弱虫だと思えば、自分を奮い立たせる方法を考えだそうという努力をしている筈である。
問題は無意識の中にある。
だからこそ、一見長所に見えるかも知れない部分について取り出して、観察してみる事が重要だと考えている。
今日は「なんとかする思考」について考えてみたい。
なんとかする思考Proactive thinking
私は物事において、問題解決が重要だと考えている。
生活においてもビジネスにおいても、何事も。
特にお金にまつわる事や、スキルや人間関係にまつわる事においては、必ずと言って良い程、問題が存在し、その解決が人生の質を左右するし、最悪の場合、その問題の放棄が生活を根底から切迫させる可能性すら帯びていると考えている。
だからこそ、私は常に問題解決を意識する。
私は私のお金の問題に向き合い、私の家族の問題に向き合ってきた。
体の問題、能力の問題にも向き合い、考えてきた。
多くの問題に取り組んできたし、組織(例えば会社や家族)においては
自分が行動して、何か変化を起こせるか、問題を解決に導けるか、常に考えてきた。
苦しい時も、難しい時も、どうすれば「なんとか出来るか」を常に考えてきた。
それは私にとって「誠意」のある生き方だった。
生きていく態度として正しいと思ってきた。
問題があるならば、それが私達を苦しめるなら、私はそれを「なんとかする事」を大事にしてきた。
生活の為にも、将来の為にも、何か目的があるならば、それを成し遂げる為に、常に問題と向き合い、なんとかする事で生き延びてきた。
それが大事だと思っていた。
時に、その姿勢は仕事場で評価されたり、自分の人生を切り開くのに、役に立った。
そのお陰で、今も生きているのかも知れない。
それくらい、私の中では重要な考え方、生きる姿勢、態度として身についてきた。
それは私にとって、とても大事な事だったし、疑いようがないくらい大切な事として、今まで生きてきた。
今、私は、その生き方自体にメスを入れようと思う。
私のこの生き方が、誰かを傷つけたり、悲しましたりするのであれば、それを取り除きたいと思うから。
どうにかなる思考
私には「どうにかなる思考」がない。
その事で、私は大いに救われてきたと思う。
問題を後回しにしないで済んできたし、困難を解決する事が出来てきたと思う。
しかし、そのせいか、私は常に何かに取り組んでいて、常に何かのタイムリミットに追われ、時に大いに疲れて、時に精神的に追い込まれてきた。
最大の問題は、私は常に追い込まれながら、それでも問題解決に取り組み、そして、それなりに、その緊張感に耐える事を学んできたが、他者には、その状態が異様であり、異形である事をあまり理解してこなかった点である。
一見、私の「なんとかする思考」は頼れる人材に映るのかも知れない。
だが、多くの人が「どうにかなる思考」も使っている以上、「なんとかする事」を常に意識し続ける私は多くの人を疲れさせるのかも知れない。
私は問題を「どうにかなる」と放置する事はしないから、誰かと共通の問題を抱えた時、そこで立ち止まる事はしないから。
私は問題を認識した時点で「なんとかする」為に動き出すから。
そのせいで、何度も何度も他人にプレッシャーを与えてきたのかも知れない。
私が「なんとかする思考」と同時に失った「どうにかなる思考」は、本当は多くの人との共通感覚を得る機会だったのかも知れない。
なんともならない世界
私は自分自身が「なんとかする思考Proactive thinking」に囚われているせいで、世界には「なんとか出来る問題Solvable Problems」と「なんともならない問題unsolvable Problems」で溢れている。
私の目には「どうにかなる世界」は映らない。
私に見えるのは放っておいたらどうにもならない前提の上で「なんとか出来る問題Solvable Problems」と「なんともならない問題unsolvable Problems」があるだけだ。
元々「どうにかなる問題」は見えてさえ居ない。
そして、私の実力では「なんとか出来る事」は少なすぎる。
結果、私は途方もなく「なんともならない世界」で生きている。
それはとてつもなく窮屈で、苦痛に満ちていて、悲しくて、非情な世界観なのかも知れない。
そして、私を通して、誰かが、その世界観に触れた時に、緊張し、圧迫され、怖くなるのかも知れない。
私の思考が作り出した世界観は、他の誰かを充分以上に不快にさせるモノなのかも知れない。
無力な私
なんともならない世界で生きている私は苦痛過ぎる程、無力だ。
無力で無能でどうしようもなく弱く、格好悪く、儚いほどに弱々しい。
そして、莫大な未解決問題と向き合って生きている。
こんな私が誰も救えないのは当然だろう。
しかし、その根本的原因は本当に私の「無力さ」にあるのだろうか。
私の「なんとかする思考」が私に結果的に強烈な無力感を与えているのではないだろうか。
「なんとか出来る問題」は私の処置により、世界から消える。
結果的に残るのはいつも、莫大な量の「なんともならない問題」の山だ。
ずっと、それと向き合い続けていれば、嫌でも己の無力さを思い知る事になる。
私の倍、有能であっても、その結果は変わらない。
私の4倍、優秀であっても、その結果は変わらない。
いや、何処かに転換点があるのだろうか。
ある程度、優秀ならば、なんともならない問題の量が劇的に減少するのだろうか。
それは今、私が立っている場所からは分からない。
「無力な私」と「なんともならない世界」
私は問題と向き合ってきた。
しかし、常にいつも力は充分ではなかった。
自分を守るだけでも精一杯。
誰かを守ろうとすれば、酷く緊張する羽目になる。
なんともならない世界の真ん中で、誰かを守ろうと決意した時、私は魔物の群れの中の羊一匹にも満たない程、か弱く心細く役に立たない存在になるだろう。
その余裕の無さは、周りの空気をピリつかせたモノにするのだろう。
ただただに弱々しいが、心持ちだけは問題と真正面から向き合う人間は勇敢というよりも無謀で、その無謀さを最も強く認識している私からは、一体、どんな空気が流れ出ているのだろう。
そこには強烈な悲壮感や焦燥感、絶望感や失望感が多分に含まれているのは、想像するに容易い。
自覚した世界の先は無い
今は、この事を自覚した先は無い。
この「なんとかする思考」を「なんとかする事」を考えるべきなのか、それは結局、同じ処をぐるぐる回っているに過ぎないのではないだろうか…
答えがわからないまま、ただ今まで「長所」だと思っていた事が「短所」である可能性を無視出来なくなった。
私は今、この状況を「進歩」だと捉えたい。
恐らく、これ以外にも「長所」として取り扱ってきたものの中には、裏側に深刻な「短所」を隠し持っているのだろう…
それは実際、多少辛い事なのかも知れない。
深刻に思い悩めば鬱々とした気分を湧き上がらせる事なのかも知れない。
ただ私は、今、この状況を「進歩」と呼ぶ事から始めたい。
自分自身の「長所」が軒並み「短所」に変わっていったとしても「どうにかなる事」を信じて。
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