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paranoia


ある日突然、何かに気がついた時。その前の景色には戻れなくなる時がある。

手品のタネを知った後。
下心に気がついてしまった男の口説き文句。
サンタクロースの正体。

もう二度と気がつく前の姿を私に見せてくれる事はない。


あの日、私は気がついてしまった。
この世界のタネ、とも言える何かに。
世界の下心に。
世界の仕組みの正体に。

あの日から、私には世界が以前のようには見えなくなってしまった。

私を労働させる為の見え透いた「意義」のような形に加工された虚構。
「貨幣」のフリをした虚無。
社会のフリをした一定の人々を豊かであり続けさせる為の枠組み。

私は気付いてしまった。
そして、全ての社会的な煌びやかさから無縁になった。

値札についた数字の虚構。
愛で繋がれている筈の家族の虚構。
求め合っている恋人や
思いやりで繋がれた友人達の虚構。

始めの中は戸惑って、危うく嘔吐してしまいそうな違和感に襲われた。
今や、その虚構に気が付かない人々の「無」に奉仕する営みを眺めている事にも慣れてきた。

私は気が付いた事を誰にも話さなかった。
虚構に魅せられている人間は、もはや虚構の奴隷で、それに気が付いてしまった人間を排除しようと攻撃してくるのだ。

気が付いた事を悟られてはいけない。

彼らと同じように擬態して、彼らと同じように紙幣を有り難がって、同じように服を着て、同じように歩いて生きている。
この世で意味のあるモノは太陽と風と緑の美しさ、男の筋肉の質感や、食事によって飢えを解消する感覚とか、そういった類の事である。

それ以外は虚構ばかりだ。

だから、心地の良い日は本当は仕事をしたくないし、暖かい陽気の日は服なんて着たくもない。男の口説き文句を聞いている時間は退屈でしかないし、疲れた日は一日中何かを貪り食っていたい。

しかし、その気持ちは押し殺さなくてはいけない。

そうでなければ、私が気が付いている事が周囲にバレてしまうから。

彼らは奴隷だ。奴隷で居続けたいのだ。
貨幣以外の価値を見出す事が出来ないまま拝金主義に収まり、自分自身に価値を見出す事が出来ないから承認欲求に囚われ、やれ地位だ名誉だ、と踊らされ、惨めに虚構に身を捧げる。

しかし、私はどうなのだろう。
彼らを欺き、迫害されない事だけを目的に日々を消化している私も、また虚無なのではないだろうか。

私の気付きを世に広めてみようか。
いや、そんな事をすれば、彼らは私を許しはしないだろう。

産まれる時代を間違えたのだろうか。
いや、これからも人類は虚構に踊らされ続けるのかも知れない。
そして、それを「文明」と呼ぶのだろう。

くだらない。
彼らは常にくだらない。
くだらないままの姿で、私の周囲を取り囲んで虚構の饗宴を続けるのだ。

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僕が大学を卒業した最初の夏、アパートの隣の女の人は救急車で運ばれて行った。

不思議な人だった。
ウネった癖のある黒髪を後で束ねて、ブラトップ姿でゴミ出しをしていた。
色白の美人で目が合えば、明るく挨拶をしてくれる。

ちょっと気になるお姉さんだった。

夜になると、男を連れ込んで、このボロアパートでは丸聞こえの営みをしていた事には正直、驚いた。
バルコニーはゴミで溢れていた。

大家さんに時々怒られていた。
そんな時は彼女は咥え煙草で、可愛げのある作り笑顔で、ペコペコ頭を下げていた。

それなのに、毎朝8時前にはビシッとしたスーツ姿で出掛けていく。

そんな不思議な女性だった。


ガコンッ…
夜、安アパートの玄関のドアに何か大きなモノがぶつかった音がした。
恐る恐るドアを開けると、すぐに詰まって開かなくなる。

女の人のストッキングに包まれた足が10cmくらい開いた隙間から見えた。

「大丈夫ですか?」
僕は小声で尋ねた。

玄関にぶつかって、今扉を開く事を妨げているのは、隣の部屋の、あの女性だと分かっていた。

「うん」

「酔ってるんですか?」
僕はまた小声で尋ねた。

「うん」

「今開けますので少し動けますか」
僕は繰り返し、小声で尋ねた。

「うん」

ドアを開けるとパンツスーツの彼女がボロアパートの廊下にへたり込んでいた。

僕は彼女を部屋へ招き入れた。
くだらない下心はすぐに現実のモノになった。

彼女の接吻はアルコールの匂いで、その後の出来事は、いつも隣の部屋から聞こえている事、そのモノだった。

僕の心の中は妙に冷静で、彼女と体を重ねながら、生まれて初めて、恋愛に関係のないセックスをしていた。
彼女の体の感触や、鼻が慣れてきたお陰で嗅ぎ取れるようになったお酒以外の匂い、彼女自身への興味なんかを頭の中で細切れに考えながら、僕は果てた。

彼女は何も言わずに、僕の頭を撫でた。
僕も何も言わなかった。

彼女が何も言わない限り、僕も何も言えなかった。
結局、彼女は僕の部屋の玄関を入ってから、出ていくまで何も言葉を発しなかった。


次の日から、彼女を見かけても、あの出来事は夢だったような気がして、いつも通り接していた。

「おはようございます」

「おはよう〜」

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「調子はどうですか?」
白衣に身を包んだ長身の男性はパソコン画面から少しの間だけ、彼女に視線を移し尋ねた。

「もう大丈夫だと思います」
ウネった黒髪を後で縛った色白の女性は答える。

「最近、死にたいと思う気持ちはありますか?」
白衣の男は、今度は体の向きを彼女に向けて尋ねた。

「ありません。あの時は気が滅入っていたのかも知れません」
彼女は嘘をついていた。
世界は虚構に包まれたまま。目の前の男も虚構の奴隷だと感じていた。しかし、擬態をしなければ。彼女は、その義務感に従った。

「最近、お酒の量は控えられていますか?」
医者はカルテの文字を見ながら彼女に尋ねた。
『救急搬送:アルコール多量摂取、睡眠薬過剰摂取』

「はい。飲み過ぎてしまうと以前のようになるので」
違う。彼女は、心の中で思った。お酒を飲みたい衝動と、酔ったまま消えてしまいたい衝動。その衝動は彼女にとっては本物なのだ。

「夜は眠れていますか?」

「はい。出して頂いているお薬のお陰で。」
それも嘘だった。
彼女は処方薬を部屋の引き出しに溜めていた。

嘘で固められた虚構の世界なら、眠れなくても騙し通せる。

本当に大切にしたいのは、生きたい様に生きて、死にたい欲望を確実に叶える事だった。

次の秋には、彼女はこの世にいなかった。
夏のうちに、生活音が聞こえなくなった事に異変を感じた隣人の通報で、動かなくなった彼女は、アパートから出ていった。

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