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【4000字】くしゃくしゃの天使【短編小説】

前書き

こちらは↓の小説『片羽のアゲハ』のサイドストーリー・ミサキ側のお話となります。
両編とも独立したお話なので、どちらから読んでもお楽しみいただけます。

本編


初めて恋人を裏切ったのは、高校生のときだった。

私は他の男と関係を持ったのだ。そのことを知った当時の恋人は、わなわなと肩を震わせて泣いた。
それを見ても、私には何の感慨も湧かなかった。だって、先に私以外の女に手を出したのは彼だったのだから。

この人は何を思って涙なんか流しているのだろう?

私を責める言葉の一つも言えず黙って泣き続けるその男を見て、私は純粋な疑問を覚えた。


二人目の恋人は、私以外の女と一線を越えることはなかった。

だが、彼が私を透かして他の誰かを見ていることを、私は知っていた。彼の電話番号リストの下の方に、決して消すことの出来ない女の名前があることも。

だから私は他の男と繋がりを持った。

そのことが知られて別れ話になった日、彼は初めて私を正面から見た。その瞳に映っていたのはしかし、「無関心」であった。
「ミサキ、別れようか」
そのとき彼の視界から永久に自分が消えたのを、無感動に私は感じていた。


母は、決して私を殴ることはしない人だった。
成人するまで育ててくれて、大学にも行かせてくれている。
だが、母は「あんたさえいなければ」と娘の私に言い続けた。幼い頃からずっとだ。

母はその言葉を吐いた後、必ず私を抱きしめた。
その抱擁が後悔なのか謝罪なのか、幼い私にはわからなかった。
それでも、それが愛なのだと思っていた。
抱きしめられた次の日に、また同じ否定の一言を浴びせられたとしても。

その頃から、私は大切な何かがわからなくなってしまったのかもしれない。


一人目の恋人を裏切った日から、私は日記を書いては破り捨てるようになった。
恋人たちの前などでの、私の言動や思いをノートに殴り書きする。
紙切れを乱雑に切り取って、くしゃくしゃに丸めて潰す。ゴミ箱へ放り込む。
日記は書いたその日には跡形もなく私の部屋から消えていった。
鉛筆が紙に擦れる音と紙が破られる音、潰される音が延々と響く。

人は皆、自由を求めて飛び立つための翼があるという。

だが、最初に他の男と関係を持ったあの日から、私の翼には裏切りという名の焼き印が押された。
生涯消えることのない罪の刻印だ。

私は日記を破っては潰す。
焼き印を消したくて、自分の羽をむしり続ける。
羽を引き抜く痛みとともに、そこには不思議な快感が宿った。
私の汚れた羽を全部抜き取ってしまえば、いつか真っ白な羽が生えてくるのではないか。そんな淡い期待が生まれる。

だが、純白の羽が現れることはなかった。
残ったのは、辺り一面に散らばった羽たちだけ。彼らが声もなく私をじっと見つめるとき、ぼんやりとした絶望が頭を掠めるのだ。

こんなぐしゃぐしゃな羽の私を誰が愛してくれるのだろう、と。



私が唯一心から愛したひとは、それは綺麗な女性だった。

一眼見たときから気になっていた。

ぼさぼさの髪に、よれよれのTシャツとジーンズ。手をポケットに突っ込んで歩く猫背の後ろ姿からは、およそ気力というものを感じられない。
彼女はよく博物館に訪れた。何の荷物も持たずに。今にも飛び立てそうなほど身軽なのに、その足取りはいつだって鉛を引きずっているかのようだった。

この人も、羽をもがれているのかもしれない。

そう気づいたときから、私は彼女を目で追うようになった。


ある日、私は彼女を飲みに誘った。

彼女は思いの外酒が弱かった。私よりも先に顔を真っ赤にして机に突っ伏してしまう。熱った頬をしながら、彼女は「ユカリ」と名乗った。
ユ、カ、リ。
そう私が呟くとユカリは照れたように、へへ、と笑った。

彼女の部屋は案の定というか、かなり汚かった。その密度を例えるならばアマゾンの熱帯雨林だ。
飲み干された酒缶が森を成して部屋の端っこに押し込められている。タバコは灰皿から溢れかえって、部屋中にうっすらとヤニの臭いを燻らせている。
「ごめん、こんな汚くて」
謝るユカリを見て私は思った。
この人は、自分の美しさに気づいていないのだ。

「私、授業行くのやめたんだ」
ベッドに寝転んだユカリが、こちらを振り向いて言う。
「なーんにもしてないんだ、なーんにも」
そう言って空虚に笑うユカリを見て、私は半ば呆れのようなものを感じた。いったいこの人は何を不安に思っているのだろう。
「いいんじゃない、なんでも」
あなたが何をやめていようが何を失っていようが、あなたの美しさはそんなことで消えようがないのに。だって、

「ユカリは、世界で一番綺麗なんだから」

私とユカリはその夜、同じ布団を被って寝た。
ふと深夜に目覚めて、隣を見た。少し酒臭い息がかかるくらいの近さ。彼女の無造作な黒髪が、私の茶髪に重なり合っている。
ユカリの白いなめらかな頬に、月光が落ちる。白銀のその光は、彼女の肌から布団をなぞって私の胸にまで届いていた。

翌日、食器がぶつかる音で目が覚めた。
ベッドの隣は空だった。掛け布団が私の肩にまでそっとかけられている。
「あ、起きた?ミサキ」
ユカリがドアの奥から顔を出した。
「ごめん、今台所にこれしかなかったんだけどさ…」
差し出されたのは、二人分の分厚いトーストだった。焦げたトーストには、いちごジャムとバターが不器用にまん丸く乗せられていた。

その日から、私は日記を破り捨てるのをやめた。


ユカリは、私が通うようになってから、家にあるタバコと酒を全て捨てた。彼女の部屋の一角、その生活の大半を占めていたものたちがすっきりと消えた。
空駆ける羽を持たない者たちは、二人だけになった部屋で愛し合う。
ユカリの目に映るものは、私だけだった。

破られなくなった日記には、ユカリとの思い出が重ねられるようになった。
記されたページは、私の新たな羽になった。その羽は触れたら壊れてしまいそうなほど繊細で、空を飛ぶ力は持たない。
それでも、ユカリがくれた羽は私の罪の刻印をそっと覆い隠してくれる。
柔らかな羽に包まれて、私は暫しのまどろみに沈んでいった。



だが、温かな午睡は長くは続かなかった。

ユカリの部屋を二人で掃除していたとき、ギターのピックが出てきた。ギター自体はもう捨ててしまったのだという。ピックもすぐにゴミ袋に投げ入れられた。

「ミサキがいるなら、私はもう他には何もいらないんだよ」
ユカリは確かにそう言ったのだ。

それなのに、買い出しから戻った私は見てしまった。捨てたはずのピックを握り締めて、目には見えないギターを弾くユカリの姿を。

ほこりが窓からの斜光を反射して宝石のように輝く。
薄明るいその部屋で、ユカリと彼女のギターは自然光に包まれて安らかな音色を奏でていた。
その空間に音はない。だが、リズムに合わせて上下するユカリの体と瞬く無数の宝石たちが、耳には聞こえない旋律を響かせていた。

私は、ユカリの背中に羽があるのをはっきりとこの目で見た。透き通った蝶の羽だ。
彼女の羽は、一点の汚れもなく清らかだ。
そして、疑いようもなくこの世界で最も美しかった。


私はその夜、ユカリのピックを持ち去った。
そして、彼女との思い出が記された日記を全て破った。

ページがくしゃくしゃに握り潰される。温かく私の身を包んでいた文字の軌跡たちが歪んで原型を失っていく。
自分の羽を一つむしる度に呼吸が浅くなっていくのがわかった。

全ての羽が抜けきってしまったとき、私は息切れしながら机に手をついた。
目の前にはユカリのピックがある。
握り潰してしまおうと思った。だが、それは潰すにはあまりも固く確かで、私の手の平に抵抗の痛みを走らせた。

握り締めた拳を緩めて、私はピックに口づけをした。



私が他の男と逢い始めたことがユカリに知られるまで、そう時間はかからなかった。

私に尋問したとき、ユカリは私をなじることも冷たい視線で見下すこともしなかった。だが同時に、かつての私への温かい眼差しは永久に失われていた。

他の男と関係を持ったことを、ユカリに知られてしまいたかったのだろうか。それは自分でもわからない。
ただ、彼女との日常が崩れ去るのを感じながらも私の心は波立たないはずだった。今までの別れと同様に。そのはずだった。

「あんたのことが好きだったんだよ」
と、ユカリは言った。

私は首を横に振った。
羽を持つ者が持たない者を愛するわけがない。そうだったのだから。生まれてからずっと、私は。

「違う」ユカリは初めて私に声を荒げた。「好きだったんだよ」

雫が、私の瞳からひとりでにこぼれ落ちた。たった一滴、けれど初めて誰かのために流した涙だった。


家に帰り着いた私を待っていたのは、机の上に置かれたユカリのピックだった。それに唇を寄せることは、もう許されない。
そのとき私は初めて声を上げて泣いた。

机の奥の、クシャクシャに丸められて角に押し込められた日記たちが目に入る。なぜか、どうしても捨てられなかった、ユカリとの記憶の最後の拠り所。
私はそれらに触れた。
ばらばらと、日記の塊が床に散らばる。
その羽たちの上には、くっきりと焼き印の跡が現れていた。
私は震える手で、ページの一つ一つ、文字が読めないくらいに固く潰された塊を解いていく。


そこにあったのは、ユカリがくれた思い出だった。

いつも駅前まで迎えに来てくれるユカリ。
自分の肩を濡らしながら傘を傾けてくれるユカリ。
危なっかしい包丁さばきで私に肉じゃがを作ってくれるユカリ。

ぼろぼろと、涙が紙の上にこぼれ落ちる。それらはシミになって、白い紙の上に斑模様を作っていく。


私の羽たち。
私が私の手で蝕んだ、私の身体。この世界から消し去ってしまいたかった、私の身体。

ぐしゃぐしゃになった羽たちは、黙って私を見つめる。彼らは、私に解きほぐされるのを待っていたのだ。そして、その上に涙を流されるのを。ずっと待ち続けていたのだ。


ごめんね。

不意に口からこぼれた言葉は、誰に向けられたものだったのだろうか。


泣きながら、私は散らばった羽たちを拾い続けた。


ー終ー


※今週日曜(9/17)にあとがきを投稿します。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
自分の書いたお話が誰かに届いているということが、日々の支えになっております!





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