相変わらずでいられるものかという話
進んだ分だけ道がある。
それは足跡の数に等しく、歩幅に比例する。
それは生きた証であり糧となりそして標になる。
年度末にまたしても転職をした。
前回からおよそ9ヶ月弱での突然の出来事である。私だって正直驚いている。
サブコン営業からゼネコン営業というスマートな(?)転身。しかも今回は人材紹介会社経由ではなく現法代表との直接的な縁がきっかけだ。
前職と同業界でかつ、(建築に関することなら)あらゆる分野・内容に対して対応可能なことが魅力的だったのと、日系大手ゼネコン出身の精鋭が集って昨年設立したばかりであることに強い可能性を感じたのが大きな理由だ。
しかしそうは言っても、転職時期としては相当悪いタイミングだったことは間違いない。
何せ入社から程なくしてハノイは外出自粛期間(20/4/1~20/4/22)である。通常であれば、前職時代に取引のあった企業などを中心に挨拶回りでもしたかったが、それさえもろくにできなかった。
この3週間の中で私ができたことといえば、せいぜい「転職のご挨拶」と題して過去に一度でも訪問した営業先等に片っ端からメールしたぐらいである。それもせっかくなので(?)"BCCで宛先各位"はせずに、Wordの差し込み文書機能を使って宛先/宛名のみ個別で一斉送信した。
割合にして全体の1/5程度、返信があっただろうか。
「ご連絡頂きありがとうございます」「転職おめでとうございます」「帰国されたと思いましたが安心しました」「何かあれば相談させてもらいます」「落ち着いたら是非いらして下さい」まぁこの辺りは定番である。
それ以外だと、「またハノイからバイクで来られるのを楽しみにしてます」
だの、「ご自身の営業活動(※恋活の意)の経過進捗報告待ってます」だの、挙げ句の果てには「後で電話します」とだけ書いて返信してきて、それから15分後位に早速社用のスマホが鳴り仕事の相談が舞い込んできたりした。
ありがたい、何だかもう、本当にありがたいことだ、としみじみ実感した。
外出自粛も明け、5月に入ってからは徐々に営業活動が可能になってきた。とはいってもまだまだ敷居は高く、特に新規開拓は「本社側からの通達で」とか「社長の指示で」とか、保安上の理由でシャッターが下ろされたままの会社も未だに残っているが。
6月に入ってからはなおのこと容易になってきた。
最近だと事業計画に影響を受けた会社とそうでない会社、稼働の下がった工場とそうでない工場の違いについて徐々にリサーチしている。自動車・バイク関連部品の製造は軒並み大打撃を受けているが、その一方で他系統の製品への部材供給も兼ねていた工場などは損害が比較的少ないというのだ。中にはトータルでプラマイゼロ、昨年立てた計画通りの数字に着地するだろうと予測する工場まである。この辺りはもう少しリサーチ範囲を広げなければなどと考えている。
そしてこの記事を書いている現在、ベトナム滞在歴は3年半になろうとしている。そしてその間に1年半→1年→9ヶ月→現在(試用期間2ヶ月経過)と、結構頻繁に転職を繰り返している。
正直なところ、ハノイ在住の他の日本人達からの風評が全く気にならないといえば嘘になる。
無理もない。
ほとんどの日本人にとって、頻繁に転職を繰り返すというのがどういうことか、そうした人が影でどんな話をされているか。流石に私だってよく知っている。
是非もない。
それでもこの道を選んだのは、俗に"縁"とか"因果"とか"運命"とか呼ばれるものを信じているし、何より自身の未来を、可能性を一番に信じているからで。
いつか昔に何処かの誰かが言っていた。
優秀な人をそうでない人が振り向かせるには二通りしかないと。"呆れさせる"か。"胸を打つ"か。その二通りしかないのだと。
だからこそ、一度この業界の道を選んだからにはもう本気で挑む他にはない。結果がどうであれ、結末はきっと、そのどちらか一方に転ぶだろうから。
私は私自身に前職時代のことを言い聞かせる。
研修期間等を除き実質8ヶ月間で、ベトナム北部の日系製造業を中心に200社以上にアポイントを取りチャンネルを作ったことを。
猛暑日だろうと大雨だろうと、会社の社用車をあまり当てにせずに自らのバイクで長距離を走り抜けたことを。
自分の足で各工業団地を隅々まで観察して随時情報収集に努めた挙げ句、ネット上の情報などもほぼ洗い尽くしベトナム北部の日系製造業だけで600社近い社名・場所・電話番号等を掌握したことを。
全ては自分自身の将来のために。ほんの微かに見出した希望を掴むために。
私の心も、芯も、何も変わらない、変えられない。
相変わらずではいられない。いられるものか!
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