見出し画像

【知ってはいけない社会主義国家】ハンガリー・ソヴィエト共和国

こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。

今回はハンガリー・ソヴィエト共和国の英語版Wikipediaの翻訳をします。

翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれません。正確さよりも一般の日本語ネイティブがあまり知られていない海外情報などの全体の流れを掴めるようになること、これを第一の優先課題としていますのでこの点ご理解いただけますと幸いです。翻訳はDeepLやGoogle翻訳などを活用しています。

翻訳において、思想や宗教について扱っている場合がありますが、私自身の思想信条とは全く関係がないということは予め述べておきます。あくまで資料としての価値を優先して翻訳しているだけです。

ハンガリー・ソヴィエト共和国

ハンガリー社会主義連邦ソヴィエト共和国は、ハンガリー第一共和国を継承し、1919年3月21日から1919年8月1日まで(133日間)存在した短命の共産国家である。ハンガリー・ソヴィエト共和国は小さな共産主義のランプ国家(※かつて大きな国家だったが植民地化の解除などによりその一部が縮小された形で残った国家のこと)であり、世界で2番目の社会主義国家であった。ハンガリー・ソヴィエト共和国が成立したとき、ハンガリーの歴史的領土の約23%しか支配していなかった。政府首脳はガルバイ・サンドルであったが、ハンガリー共産党の外相クン・ベーラの影響力の方がはるかに強かった。ハンガリーを経済封鎖していた資本主義の三国同盟との合意も得られず、周辺諸国との領土問題や社会情勢の変化もあり、ソヴィエト共和国はその目的を達成できず、成立から数ヵ月で廃止された。最初の頃は新政府の大半が社会主義者であったにもかかわらず、その中心人物は共産主義者のクン・ベーラである。

ハンガリー・ソヴィエト共和国の実際上の権力者クン・ベーラ
ハンガリー・ソヴィエト共和国の名目上の指導者ガルバイ・サンドル

※社会主義国家としてはバイエルン人民国が1918年11月に成立している。ブレーメン・ソヴィエト共和国やザクセン・ソヴィエト共和国などもハンガリー・ソヴィエト共和国よりも設立は早く、「2番目の社会主義国家」というのは誤りではないかと思う。

新政権は、経済封鎖の解除、新しい国境の改善、第一次世界大戦の戦勝国による新政権の承認につながる三国同盟との合意に至らなかった。ブダペストの工場労働者を中心に小さな義勇軍が組織され、周辺国に奪われた領土を回復しようと試みたが、この目的は、新政権の支持者だけではなく、いくつかの大都市の多くの労働階級から広く支持を得ていた。当初、保守派将校の愛国的な支援により、共和国軍はハンガリー北部でチェコスロバキア軍に対して前進したが、4月下旬にルーマニア軍の手によって東部で敗北し、ティサ河畔で撤退することになった。6月中旬、スロバキア・ソヴィエト共和国の誕生が宣言され、三国同盟の要請によるハンガリー軍の撤退まで2週間続いた。同月末、社会民主党によるクーデター未遂事件が発生した。7月20日、共和国はティサ川でハンガリーに深入りしていたルーマニアの支隊に対して新たな攻撃を開始した。ハンガリー軍の進撃が数日続いた後、ルーマニア軍は攻勢を止め、ハンガリー軍の戦線を突破することに成功した。クンと政府の大半はウィーンに逃亡した。8月1日、社会主義・共産主義政権は、社会主義だけの政権に引き継がれた。共産主義者たちはブダペストを離れ、外国に渡った。連合国の禁止にもかかわらず、ルーマニア人は8月4日、ハンガリーの首都ブダペストに入城した。

ハンガリーの政府首脳は、外交(戦時中の国益ではなく国際主義)と内政(計画経済と階級闘争の強化)の両面で論争的な教義を適用し、国民の大多数の支持を失わせていた。スロバキアからの撤退後、国民の支持を回復するためのいくつかの施策の適用が命じられたが、大きな成果は得られなかった。特に、アルコール飲料の販売禁止が廃止され、貨幣状況や食糧供給の改善の試みがなされた。しかし、これらの政策がうまく機能しないまま、6月から7月にかけて、共和国はすでに国民の大半の支持を失い、軍事的敗北とあいまって没落の道をたどることになる。内部改革の失敗は、外交政策にも及び、三国同盟による政治的・経済的孤立、周辺国に対する軍事的失敗、ロシア内戦による赤軍との合流不可能などが、ソヴィエト共和国の崩壊を招いた。

旧ハンガリー王国の領土の地図、1919年5月から8月

概要

1919年にハンガリー・ソヴィエト共和国が成立すると、第一次世界大戦前のハンガリーの領土(32万5411km2)の約23%を支配した。ハンガリー第一共和国の後継で、期間は同年3月21日から8月1日までであった。ハンガリー・ソヴィエト共和国の「法律上の」指導者はガルバイ・サンドル大統領であったが、「事実上の」権力は外相のクン・ベーラが握っており、彼はラジオ電信でウラジーミル・レーニンと直接連絡を取っていた。レーニンは、クレムリンとの常時無線通信を通じて、クン・ベーラに直接命令と助言を与えていたのである。

当時のロシアの最高権力者ウラジーミル・レーニン

帝政ロシアの十月革命でボリシェヴィキが政権を握った後、ソビエト・ロシアに次いで世界で2番目に成立した社会主義国家であった。ハンガリー・ソヴィエト共和国は、ルーマニア王国、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(※ユーゴスラビア王国)、発展途上のチェコスロバキアと軍事衝突を起こした。8月1日、ハンガリー人がルーマニア軍への降伏交渉のために代表を送り、終結した。英語の資料ではHungarian Soviet Republicと表記されることが多いが、これは誤訳である。直訳するとRepublic of Councils in Hungaryであり、これはハンガリー民族の強い意味合いを避け、新共産党政権のプロレタリア国際主義を表現するために選ばれた。

第一次世界大戦とハンガリー第一共和国

政治・軍事情勢

1918年、オーストリア・ハンガリーのハプスブルク王政が崩壊し、アスター革命の後、独立したハンガリー第一共和国が成立した。共和国の正式な宣言は11月16日で、自由主義者のカーロイ・ミハーイ伯爵が大統領に就任した。カーロイは、政府の権威を確立し、国を支配するために奮闘する。カーロイ・ミハーイがハンガリー首相に就任すると発表された時、ハンガリー王立ホンヴェード軍はまだ140万人以上の兵士を抱えていた。カーロイは、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの平和主義の要求に応え、ハンガリー軍の一方的な自主軍縮を命じた。これは1918年11月2日、陸軍大臣リンデル・ベーラの指示で行われた。一方的な軍縮のため、ハンガリーは、特に脆弱な時期に国防を持たないままであった。ハンガリーの自己軍縮により、ルーマニアの比較的小さな軍隊、フランコ・セルビア軍、新しく設立されたチェコスロバキアの軍隊がハンガリーの占領を直接可能にした。

ハンガリー人民共和国の指導者カーロイ・ミハーイ
アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソン

オーストリア=ハンガリー政府の要請により、11月3日、連合国によってオーストリア=ハンガリーに休戦協定が付与された。その後、軍事的、政治的な出来事は急速かつ大きく変化した。11月5日、セルビア軍はフランス軍の支援を受け、南の国境を越えた。11月8日、チェコスロバキア軍が北の国境を越えた。11月13日、ルーマニア軍がハンガリー王国の東の国境を越えた。カーロイの平和主義内閣の統治下、ハンガリーは第一次世界大戦前の旧領土(32万5411 km²)の約75%を武力抵抗なく失い、外国の占領下に置かれることになった。近隣諸国は、いわゆる「共産主義との闘い」を、最初はカーロイ・ミハーイ伯爵の資本主義・自由主義政権に対して、後には共産主義者クン・ベーラのソヴィエト共和国に対して、拡張主義の野心を正当化するために利用した。

共産党の結成

ハンガリー共産党の最初の核は、1918年11月4日にハンガリー人捕虜と他の共産主義推進者のグループがモスクワで中央委員会を結成したときに、ホテルで組織されていた。11月24日、彼らはハンガリー共産党を設立した。この党名は、Hungarian Communist Partyではなく、Party of Communists from Hungaryと呼ばれるようになったのは、当時ハンガリーの都市工業労働者階級の支持者の大半が非ハンガリー系民族で構成され、新党自体ではハンガリー系民族は少数派であったためである。党は、その思想を広めながら党員を募り、その過程でハンガリー社会民主党の多くの党員を急進させた。1919年2月までに党員数は3万人から4万人に達し、その中には失業中の元兵士、若い知識人、少数民族が多く含まれていた。

クンは「赤い新聞」という新聞を創刊し、カーロイの自由主義政権を集中的に攻撃した。党はブダペストのプロレタリアートの間で人気を博し、徴兵制がなくてもハンガリーの領土を守ることができると約束した。クンは、非共産圏のルーマニア、チェコスロバキア、フランス、ユーゴスラビア軍に対するソヴィエト赤軍の軍事援助と介入を約束したが、これは実現しなかった。この後、共産党の権力基盤は急速に拡大した。共産党の支持者は、メディアや社会民主党に対して積極的なデモを行うようになった。共産党は社会民主党をライバル視していた。社会民主党は同じ社会階級、つまり都市の工業労働者階級から政治的支持者を集めていたからである。2月20日、デモが暴徒化し、ハンガリー社会民主党の機関紙「人民の言葉」の編集部がデモ隊に襲撃されるという重大な事件が起きた。その混乱の中で、警官を含む7人が死亡した。政府は共産党の指導者を逮捕し、その日刊紙『赤い新聞』を発禁にし、党の建物を閉鎖した。逮捕は特に暴力的で、警察官は公然と共産党員を殴打した。その結果、ブダペストのプロレタリアートの大衆の間で、党への同情が高まった。3月1日、『赤い新聞』は再び出版を許可され、共産党の敷地は再開された。指導者たちは、獄中で客を迎えることが許され、政治的な問題を把握することができるようになった。

1919 年のハンガリー共産党のプロパガンダ ポスターには次のように書かれています。
「武器へ!武器へ!」

共産主義支配

クーデター

3月20日、カーロイは首相デネス・ベリンキーの政権が辞任することを発表した。ヴィックス・ノート(※連合国側のフランス中佐がカーロイに送った文書で、ベオグラード休戦協定で合意した以上の領土をハンガリーに撤退させることを意図した文書、これによりハンガリーのトランシルヴァニア地方支配に終止符が打たれた)の提示は、それまで大きな支持を得ていなかった同政権にとって致命的なものであった。カーロイとベリンキーは、パリからハンガリー軍の撤退を命じるメモを受け取ったことで、どうしようもない状況に追い込まれた。新しい軍事境界線が戦後の境界線となることが広く想定されていたのである。カーロイとベリンキーは、このメモを受諾すればハンガリーの領土保全が危うくなると考えつつも、拒否する立場にはないと判断した。3月21日、カーロイは閣僚会議に、新政権を樹立できるのは社会民主党だけであると告げた。社会民主党は大都市、特にブダペストで最も高い支持を得ていた政党であったからだ。社会民主党は、連立政権を樹立するために、まだ投獄されていた共産党幹部と秘密裏に交渉を始め、両党を合併してハンガリー社会党を名乗ることに決めた。反共主義を公言していたカーロイ大統領は、この合併について知らされていなかった。そのため、彼は社会民主党政権と信じて宣誓したが、共産主義者が支配する政権に直面することになった。3月21日、カーロイは辞任した。クン・ベーラと彼の仲間の共産主義者は、3月20日の夜、マルギット・リング刑務所から釈放された。リベラル派の大統領だったカーロイは、その日のうちに共産党の新政権に逮捕され、7月にはパリに逃亡することに成功した。

社会民主党にとって、ハンガリー共産党との同盟は、産業労働者階級での地位を高めるだけでなく、クンが著名なロシアのボルシェヴィキと強いつながりをもっていたことから、強大化するロシア共産党(ボルシェヴィキ)との潜在的なつながりを得ることにもなった。ウラジーミル・レーニンを手本としながらも、その名の由来となった労働者評議会(ソヴィエト)の直接参加はなく、新たに統一された社会党は革命統治評議会という政府を作り、ハンガリー・ソヴィエト共和国を宣言して3月21日にカーロイ大統領を罷免した。クンはロシア連邦への無線通信で、ハンガリーにプロレタリアート独裁が成立したことをレーニンに伝え、ロシア連邦との同盟条約を要請した。ロシア連邦は、自分たちがロシア内戦に巻き込まれていることを理由に、これを拒否した。3月23日、レーニンはクン・ベーラに、ハンガリーを「プロレタリアートの独裁」による社会主義国家にするために、社会民主党を政権から排除しなければならないと命令した。そのため、共産党は翌日から社会民主党を政府から粛清し始めた。

ガルバイ政権

政府は形式的にはガルバイ・サンドルが率いていたが、外務委員であったクンが実権を握っていたのは、レーニンと面識があり友好的であったクンのみだったからである。ロシア革命時にボルシェヴィキの指導者と会って話をしたのは政府内でクンだけであり、クレムリンとは無線通信で連絡を取っていた。政府の各メンバーの間でしばしば持ち回りとなった省庁は次の通りである。

ガルバイ・サンドル:ハンガリー・ソヴィエト共和国大統領兼首相
ランドレル・イェネー(※ユダヤ人):内務委員会
チズマディア・サンドル、ヴァーントゥス・カーロイ、ハンブルゲル・イェネー(※ユダヤ人)、ニストル・ジェルジュ:農業委員会
ポガーニ・ヨゼフ(※ユダヤ人)、後にフィエドレル・レージョー、ハウブリッヒ・ヨゼフ、サーントー・ベーラ(※ユダヤ人):国防委員会
ローナイ・ゾルタン(※ユダヤ人)、後にイシュトヴァン・ラーデイ:司法委員会
ランドレル・イェネー:貿易委員会
エルデリ・モル、後にコンドル・ベルナト:食糧委員会
クンフィ・ジグモンド(※ユダヤ人)、後にルカーチ・ジェルジュ(※ユダヤ人)、サミュエリ・ティボール(※ユダヤ人)・サムエリ、サバドス・サーンドル:教育委員会
クン・ベーラ(※ユダヤ人):外務委員会
ボカーニ・デジェ:労働委員会委員
ヘンリク・カルマル(※ユダヤ人):ドイツ問題担当委員会
ヴァルガ・イェネー(※ユダヤ人)、後にレンゲル・ジュラ(※ユダヤ人):財務委員会
ベーム・ヴィルモス(※ユダヤ人)後にドヴチャーク・アンタル:社会主義担当委員会

ハンガリー・ソヴィエト共和国内務委員会長官ランドレル・イェネー
ハンガリー・ソヴィエト国防委員会長官ポガーニ・ヨゼフ
後に「ジョン・ペパー」の名でアメリカ共産主義運動において重要な役割を果たす
ハンガリーの哲学者ルカーチ・ジェルジュ
教育文化委員会長官
農務委員会長官ハンブルゲル・イェネー
後ソ連の放射線医師
ハンガリー生まれの経済学者、財務委員会長官ヴァルガ・イェネー

憲法が宣言された後、委員会に変化が起こった。新しい省庁は以下の通りである。

ヴァルガ・イェネー、ラーコシ・マーチャーシュ(※ユダヤ人)、ヘヴェシ・ジュラ(※ユダヤ人)、ヨゼフ・ケレン(※ユダヤ人)、バヤーキ・フェレンツ:経済生産委員会
ランドル・イェネー、ヴァーゴ・ベーラ(※ユダヤ人):内務、鉄道、航海の各委員会
ベーラ・クン、アゴストン・ペテル、ポガーニ・ヨゼフ:外務委員会

第二次世界大戦後にハンガリーの指導者となるラーコシ・マーチャーシュ
ハンガリー・ソヴィエト共和国政府
バロス(ハンガリーの政治家)像の上にあるピラミッド
アルベルト・バキによる水彩画
ブダペスト、1919年5月1日。

政策

この政府は社会主義者と共産主義者の連立政権であったが、クンを除くすべての委員会は旧社会民主党員であった。クンの統治下で、共産主義者のプログラムを全面的に採用した新政府は、貴族の称号と特権の廃止、政教分離、集会の自由と言論の自由の成文化、教育の自由と少数民族の言語・文化権の実施などを定めた。

1919年3月、ブダペストの通りを疾走する共産主義者を乗せた自動車

共産党政府はまた、工業と商業の企業を国有化し、住宅、輸送、銀行、医療、文化施設、40ヘクタール以上のすべての土地所有者を社会化した。共産党に対する国民の支持は、ハンガリーの旧国境を回復するという共産党の約束にも大きく依存していた。政府は、戦後の交渉でハンガリーが失うことになった土地の一部を取り戻すために、三国同盟諸国との外交関係を正常化するための措置を講じた。共産党は、ハンガリーの田舎では不人気で、政府の権威が存在しないことが多かった。共産党とその政策は、特にブダペストなど、労働者階級が住民の高い割合を占める大規模な工業地帯のプロレタリア大衆にのみ、真の大衆的支持を得ていた。

ハンガリー・ソヴィエト共和国の事実上の指導者クン・ベーラ

ハンガリー政府は孤立無援となり、ラーコシ・マーチャーシュの指揮のもと赤衛隊が設立された。さらに、レーニン少年隊と呼ばれる200人の武装集団が、チェルニー・ヨゼフの指揮の下、移動分遣隊を結成した。この分遣隊は、反革命運動が疑われる国中のさまざまな場所に配置された。レーニン少年隊や他の同様のグループや扇動家は、多くの人々を殺害し、恐怖に陥れた(例えば、手榴弾で武装し、ライフルの尻を使い、宗教儀式を解散させるなど)。また、犠牲者を裁判にかけずに処刑したため、地元住民との間に多くの紛争が発生し、その一部は暴力に発展した。6月24日に社会民主党がクーデターに失敗すると、首都ブダペストではハンガリー共産主義者の状況が悪化し始め、新たに構成されたガルバイ・サンドルの共産主義政権は大規模な報復に踏み切った。革命法廷は、クーデター未遂に関与したと疑われる人物の処刑を命じた。これは「赤色テロ」と呼ばれ、高度に工業化されたブダペスト郊外や首都圏の労働者階級の間でも、国内の政府への支持を大きく減らした。

外交スキャンダルと失脚

5月下旬、連合軍の代表がハンガリーに対してさらなる領土の譲歩を要求した後、クンはハンガリーの歴史的国境を堅持するという約束を履行しようとした。ハンガリー赤軍の兵士たちは、ブダペストのプロレタリアートの志願兵から集められたものであった。6月、ハンガリー赤軍は、チェコスロバキア(現在のスロバキア)の東部、いわゆる上ハンガリーだった地域に侵攻した。ハンガリー赤軍は、シュトロムフェルド・アウレル大佐の指揮の下、北からチェコ軍を追い出し、東ではルーマニア軍との進撃を計画するなど、早い段階で軍事的成功を収めた。ハンガリーの旧国境回復を約束したにもかかわらず、共産党は6月16日にプレショフ(※現在スロバキア第三の都市)でスロバキア・ソヴィエト共和国の樹立を宣言した。

スロバキア・ソヴィエト共和国が宣言された後、ハンガリーの民族主義者と愛国者は、共産主義新政府が失われた領土を奪還するつもりはなく、共産主義イデオロギーを広め、ヨーロッパに他の共産主義国家を設立することだけを考えており、そのためにハンガリーの国益を犠牲にしているとすぐに気づいた。赤軍のハンガリー愛国者や職業軍人たちはこれを裏切り行為とみなし、政府への支持を失い始めた(共産主義者とその政府はスロバキア共産主義国家の樹立を支持し、ハンガリー愛国者は再占領した領土をハンガリーのために維持しようとした)。チェコスロバキア軍に対する一連の軍事的勝利にもかかわらず、スロバキア・ソヴィエト共和国樹立時の民族主義者と共産主義者の緊張により、ハンガリー赤軍は崩壊し始めた。この譲歩は、ハンガリー赤軍の職業軍人や民族主義者の間で共産党政権への支持を失い、参謀総長のシュトロムフェルド・アウレルも抗議のために辞職した。

フランスがハンガリー政府にルーマニア軍のティサントゥール(※ハンガリーのティサ川とルーマニアのアプセニ山脈の間にある地域で「ティサントゥールはティサ川を越えて」という意味)からの撤退を約束すると、クンは上ハンガリーの政治的混乱後も忠誠を誓っていた残存部隊を撤退させたが、赤軍が北から撤退すると、ルーマニア軍も撤退することはなかった。クンは、1919年のハンガリー・ルーマニア戦争で、戦意喪失したハンガリー赤軍の残存部隊をルーマニア軍に差し向けようとしたが、失敗している。ハンガリー・ソヴィエトは、ブダペストからの共産主義者の志願兵という小さな部隊でルーマニアと戦うことがますます困難になり、国内では戦争と共産党への支持が低下していた。ハンガリー北部(後のチェコスロバキアの一部)からの戦意喪失の撤退後、最も熱心なハンガリー人共産主義者だけが戦闘に志願し、ルーマニア軍は7月30日にハンガリー赤軍の弱い戦線を突破してきた。

クン・ベーラは他の高位の共産主義者とともに8月1日にウィーンに逃亡し、元文化委員会長官で著名なマルクス主義哲学者のルカーチ・ジョルジュを含む少数派だけが地下共産党を組織するために残った。 ブダペスト労働者ソヴィエトはペイドル・ジュラを首班とする新政府を選出したが、それは8月6日にルーマニア軍がブダペストに進駐するまで数日しか持たなかった。

パガーニ・ヨゼフが共産主義者の兵士たちと話す

ソビエト共和国の崩壊とルーマニア軍の存在によって生じた権力の空白の中で、準正規部隊(厳密にはホルティ(※ハンガリーの海軍軍人ホルティ・ミクローシュ)の指揮下にあったが、実際にはほとんど独立していた)が共産主義者、左翼、ユダヤ人に対する暴力キャンペーンを始め、「白色テロ」と呼ばれた。 アゴストン・ペテル、バヤーキ・フェレンツ、ボカーニ・デジェ、ドヴチャーク・アンタル、ハウブリッヒ・ヨゼフ、ヘンリック・カルマル、ヨゼフ・ケレン、ニストル・ジェルジュ、サバドス・サーンドル、ヴァーントゥス・カーロイなどの支持者は裁判によって投獄された(「コミッサー訴訟」)。俳優のルゴシ・ベーラは、同国の全国俳優労働組合(世界初の映画俳優組合)の創設者であり、なんとか脱出することができた。その後、1921年にハンガリーとロシア・ソヴィエト政府との間で囚人交換協定が結ばれ、ホルティの時代に恩赦で大半がソヴィエト連邦に釈放された。この協定の結果、全部で約415人の囚人が釈放された。

クン自身は、他の不特定多数のハンガリー人共産主義者とともに、1920年代に亡命したソヴィエト連邦で1930年代後半に行われたヨシフ・スターリンの大粛清で処刑された。ソヴィエト共和国の生き残りの一人であるラーコシは、その後、1949年から1956年まで、ハンガリーで共産主義国家を目指した2度目の、より長期の試みであるハンガリー人民共和国の初代指導者となる。

関連記事

最後に

最後までお付き合いいただきありがとうございました。もし記事を読んで面白かったなと思った方はスキをクリックしていただけますと励みになります。

今度も引き続き読んでみたいなと感じましたらフォローも是非お願いします。何かご感想・ご要望などありましたら気軽にコメントお願いいたします。

Twitterの方も興味がありましたら覗いてみてください。

今回はここまでになります。それではまたのご訪問をお待ちしております。

今後の活動のためにご支援いただけますと助かります。 もし一連の活動にご関心がありましたらサポートのご協力お願いします。