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「思い出」をカタチにしておくことへの躊躇い。

私は、写真をあまり撮りません。嫌いなわけでもないですし、好きな方なんですがフォルダを見ると1週間前から1枚も増えていないということが多々あります。

もともと1番自分の姿を残しておきたかった思春期にケータイを使える環境になかったので(持ち始めたのは高校生になってから)何かがあってもそれを残すという考えがそもそもなかった感じです。

けど、今になってやっぱり残しておけばよかったな。とか、あの時のご飯美味しかったなお店どこだっけ、となるのです。

人と会うときは基本的にあまりケータイをいじらないようにしていますし、ところかまわずパシャパシャするのも苦手です。自撮りもしません。プリクラも中学生のころは撮ってましたが、写真に消える200円を冷静に換算した時に怖くなって撮らなくなりました。

そもそも、自分で見返して感じるものがあるものに、周りを気にして光がどうとか、角度がどうとか、好きにさせてくれってなってしまいます。

ですが、今は写真と一緒に何かを発信する時代になってきていますし、いわゆる「バズる」といわれるものは写真・動画と一緒にありますよね。あくまで私の私感ですが、、、

写真という、あの時の自分が見たもの触れたものをいつでもまた見れるものを作り上げたのはそもそもなんでなんでしょう、と考えることがあります。

とても良い技術であって良かったなと思いますが、この思い出を残すことによって、それに引っ張られてしまうこともあるのではないかとも考えることがあります。

例えば、昔付き合っていた人と撮った写真とか。なんともなくとも見るとなんとなく懐かしい気持ちやら、センチメンタルな気持ちになってしまいます。

まあ、消せよという話なのですが、忘れていた頃にひょっこりと出てきたりするものです。本当、不意に。

そして、人間って自分の良い方向にもっていきがちなので、あの時に戻れたら。あの時はどうしてたっけ。過去に引っ張られてしまいます。

だからこそ、私はあまり残したくないのかもしれません。どうしたって、前に進めなくなりそうで、残すものがなければ捉われるものもない。

だけどやっぱり、自分が何を見て、何を感じてきたのか、誰といて、どんな気持ちを共有したのか、それを残すのはとても価値があると感じるようになりました。というか、価値の塊ですね。

思い出に引っ張られるから踏み出せないのではなく、思い出があるからこそ踏み出せるように、残していくべきだ。今日も上も下も前も見て残していこうと思います。

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