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減刑ならまだしも無罪って… ――刑法39条を冷静に批判する

刑法39条は、心神喪失者の行為を罰しないと定め(1項)、心神耗弱者の場合は減刑としている(2項)。

こうした法律が世界の法制史上いつから存在するのか、不勉強で存じ上げない。しかしながら、「理性」を持つ者のみを主体と見なす、いかにも近代主義的な発想である。

このような法律を古いとは思わない。むしろ、時代の先を行き過ぎているのだ。39条は、生身の人間には到達困難な合理主義的精神に基づいていると言える。


では、この「罰しない」という発想は果たして正しいのか?

犯行当時に善悪の判断ができない状態だった人を罰するのはアンフェアだという論理には、穴があるのではないか。

まず、犯行当時の精神状態を判定する難しさがある。次に、善悪の判断能力(刑事責任能力)が無いとは如何なる状態なのか曖昧だ。意図せず無意識のうちに犯罪を行ったということなのか、それとも自分の行為が違法だという認識が欠如していたということか。100%無意識だとか、認識が100%欠如していたなどと、どうやって測定・証明するのだろうか?


こうした議論百出の難題を回避するには、次のように発想を転換するしかない。責任の発生源を、本人の精神や意思ではなく、本人の行為そのものに見出すのだ。つまり、そうする意思が全く無くて犯罪を行った場合でも、その行為の主体を責任主体として罰するわけだ。

以上から、心神喪失者でも罰すべきというのが私の意見である。

しかし問題なのは減刑すべきかどうかだ。精神疾患や知的障害を理由に減刑するのなら、どういう場合にどの程度減刑するのか、あるいは通常どおり裁くのか、悩ましいところだ。


ちなみに私は39条に関しては厳罰化論者だが、死刑廃止論者でもある。心神喪失や心神耗弱であってもなくても死刑には反対だ。ややこしくて申し訳ない。

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