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「大きな物語」などという嘘に騙されるな!似非インテリの衒学的芸術論の落とし穴

下らない似非インテリが行っている芸術論・批評はこの動画でわかりやすく解説されている「大きな物語」の哲学に依拠している。
だが、これはあくまでも「哲学」の世界であって「芸術」の世界に直接のつながりがあるわけでなし、私は昔から全く信用していない。
そもそもこれを提唱したジャン・フランソワ・リオタール自体が現代哲学において決定的な流れを作った人というわけでもないだろうし。
ところが、宇野常寛・東浩紀・切通理作・宮台真司・町山智浩・ライムスター宇多丸らは多かれ少なかれこの知性のかけらも無い考えに無批判・無反省に隷属している

東浩紀の『動物化するポストモダン』もその典型だが、あれこそ正にやってはならない文芸批評の典型であり、サブカルのファン層からは思いっきり批判されていた。
私も拝読したことがあるが、宇野常寛の『リトル・ピープルの時代』『ゼロ年代の想像力』に似た無内容な文芸批評にすらなってない知識自慢でしか無いであろう。
「データベース消費」などというありもしない嘘の概念を作り出し、オタクやファンたちの消費のあり方をこうだと制度化して決めつけようとするナンセンスは唾棄すべき邪悪だ。
こういう所にこそファシズムは忍び寄ってくるわけであり、思えば今くだらないポリコレやLGBTらとやっていることは大差ない。

私は現在サイレントから改めて映画を見直してみるが、それこそバスター・キートンらが大活躍していたサイレントの時代から映像作品が「大きな物語」だった試しはない
例えば昨日批評した『非常線の女』(1933)が「大きな物語」かといえば違うし、キートンのスラップスティックがそうだったなんて批評するバカはいないであろう。
同様に私は「ウルトラマン」がビッグ・ブラザーで「仮面ライダー」がリトル・ピープルだったなんて言説も完全な宇野のでっち上げでしかないと思っている。
ではなぜこんなことをするのかというと、上記した似非も含むインテリ、知識階級と呼ばれる人たちがその影響力を学生運動の挫折を機に喪失したからであろう。

浅間山荘事件で学生運動が失敗に終わり敗北するまで、インテリたちは若者が政治に対して反抗し革命を起こせるものだと信じていた。
ところが、これが頓挫してしまうともはや国全体に「革命など起きない」というある種の諦念が蔓延し、インテリたちは鳴りを潜めて政治に無関心になる。
世を導くインテリたちがそうなってしまうと当然その下にいる大衆も政治に対して無関心な層が多くなってしまう、そこで次の標的がサブカルチャーだった
音楽・映画・絵画・舞台・漫画・アニメはかつてインテリたちからは「俗物が生み出した思考を堕落させる産物」と詰られていたものである。

ところが、政治経済に対して影響力を持てなくなると、今度はその持て余した知識や学問を民衆が楽しむサブカルチャーに対して発揮するようになった。
低俗だと見下していたものを今度は逆に高尚で高級なものだとして骨董品扱いし出して、今度はとうとう作品や作家に権威をつけようとする。
作品の向こう側に作者の心理や時代性といったものを読み込むようになってしまい、庶民にとっての楽しみ方の幅が減ってしまった
もっともそれは日本に限らずアメリカでもフランスでも、どこの国にでもそんな層はいるのだが、蓮實重彦はそういう人たちを「好事家」と呼んで蔑んでいた。

私がなぜ世に跋扈しているインテリ評論家の中でも特に淀川長治と蓮實重彦を信頼しているかというと、この2人はそのようなアホな評論をしなかったからだ
2人とも映画に対して純粋で真摯であり、厳しさと優しさを持ちながら映画が持つ「画面の運動」なるものにしっかり向き合って言語化していた。
淀川長治は感覚的に、蓮實重彦は理論的にそれを遣って退けたのであるが、彼らの語り口を見ているとこちらも自然と映画に向き合う心構えになる。
それを忘れて画面の向こうを読もうとすると、たちまち町山智浩たち似非インテリが落とし穴を作って待っており、搾取されるという構造なのだ。

で、これが評論家だけならともかく作り手までもがそういうところがあって、それこそ私は東映特撮だと白倉伸一郎が正にその似非インテリの代表であろう。
「ヒーローと正義」なんて書物まで出して饒舌に書き殴っているが、この人の書物のレベルも宮台真司や町山智浩とも大差ない下品さである。
それに私は平成ライダーをやっていた当時から一貫して白倉伸一郎ならびに彼の作品群を心底いいと思ったことは一度もない
何故ならば彼は「思想」「哲学」で勝負しようとしていて、真の意味で「仮面ライダーとは何か?」という「画面の運動」としての向き合い方をしていないからだ。

現在配信中の『仮面ライダー555』がそうだが、あれは結局のところ画面の運動や身振り・手振りが面白いのではなく物語・思想・心理に帰着してしまう
白倉伸一郎はいうなれば「思想」の人であって「映像」の人ではないのだなと思う、この点はまだ髙寺成紀の方が「映像」の人ではあった
まあ髙寺成紀も正直円谷信仰や「等身大の正義」がややもすれば顔を出すところがあるが、それを出し過ぎなければ本当に凄い作品を生み出せる。
それこそ『星獣戦隊ギンガマン』(1998)や『仮面ライダークウガ』(2000)の「画面の運動」が私はとても大好きで、ドラマ以上にそこが現在も刺激してくれる。

音楽・映画・絵画・舞台・漫画・アニメが決して時代性がないとはいわない、確かに「歌は世につれ世は歌につれ」という諺はあるのだ。
だが、それはあくまでも表面上の道具や表現の仕方が変わっただけで理論的な形式そのものはそんなに変わっていないのではないか?
そこに物語の大きさは関係なく、単純な面白いつまらないや好き嫌いといった感想レベルで各々が好き勝手に語ればいいと思う。
カメラで切り取られたフィクションの世界に対して人が感動するのは決して「画面の向こう側」ではなく表層にあるものが心を揺さぶるからだ。

たとえば歌舞伎・能・狂言を見たときそこに「社会」「思想」「哲学」を読み込んで語るようなバカがいるか?
イチロー選手や錦織圭選手のプレイを見てそこに「大きな物語」「小さな物語」なんて概念を持ち込んで語る人はいるか?
ちょっと考えればそんなことをするバカはいないとわかるであろうに、何故似非インテリたちはいつまでもそんなくだらないことをしているのか、さっぱり理解できない。
まあ要するにポジショントークをかまし、民衆をだまくらかしてお金稼ぎがしたいということの現れなのだろうが、本当に虫酸が走る。

浦沢義雄が「感動とは目の濁った人間のすること」といっていたが、本当にこの似非インテリたちこそ正に「目の濁った人間」である
本当に目が綺麗な人たちは決してそのようなものに騙されず、純粋な感動を言語化し作品を純粋に楽しむであろう。

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