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孫悟飯に対する違和感がどうしても拭えない『銀河ギリギリ!!ぶっちぎりの凄い奴』『危険なふたり!超戦士はねむれない』

ここ最近ずっと「テニスの王子様」の話題が続いていたので、久々に「ドラゴンボール」の話題。
そういえば「スーパーヒーロー」以外で孫悟飯が主役の映画があったなと見直してみたのですが、それが『銀河ギリギリ!!ぶっちぎりの凄い奴』『危険なふたり!超戦士はねむれない』の二作。
やはり昔の映画ってあくまでテレビシリーズのアナザー外伝というか番外編みたいに作られているため、かなり適当なのが多く、その中でもこの二作は適当 of 適当だなと。
「スーパーヒーロー」の方がまだ「孫悟飯らしさ」がきちんと描けていて良かったと思うのですよね、脚本が原作者の鳥山明先生だったからというのも大きく影響していますが。

「銀河ギリギリ」「危険なふたり」の二作に共通しているのは「孫悟飯がどうやって戦いなんか楽しむんだよ?」という違和感がどうしても拭えなかったことです。
そもそも「Z」時代の映画は悟空をありがちな地球を守る正統派ヒーローとして描いている時点でキャラ解釈を間違えているのですが、悟飯に関しても同じことが言えます。
まず「銀河ギリギリ」の方ですが、ミスター・サタンが主催するアトラクションショーの武道大会ですが、セルゲームの後で本当に悟飯たちが戦いを楽しめるでしょうか?
特に悟飯はセルゲームで父親を失って間もない頃なのに、それでのうのうと武道大会を楽しんでいるというのが私の中ではどうにも受け入れ難い設定でした。

また、それは「危険なふたり!」も同じで、こちらはハイスクール編の悟天と一緒に修行していた時の青年悟飯ですが、こちらもやはり同じです。
そもそも私は旧作のブロリー(悪党の方)自体が大嫌いなキャラなのですが、それ以上にまず孫悟飯が嬉々として戦いをやっているという状況が受け入れられません
どうにも脚本家の小山高生はキャラを理解せずして書いていることが多いなあと思ったのですが、孫悟飯を単なる地球を守る優しい正統派ヒーローと思ったのでしょうか?
ブロリーの擦り倒し以上に気になったのは小山解釈の悟飯のキャラであり、今見直すと演出や作画はともかく設定や脚本はとても見るに堪えない子供騙しのレベルです。

私が思う孫悟飯の「戦いが好きではない」という性格は元来の穏やかで平和を愛する性格だけではなく、幼少期から凄まじい戦いを経験させられてきたからという環境も大きく影響しています。
少年時代の孫悟飯は戦いを好まない性格だが、愛する人が傷つけられるとブチギレて凄まじい戦闘力を発揮するという特化型のピーキーなタイプで、鳥山先生からすれば扱いにくいキャラでした。
で、そんな悟飯はまずラディッツ戦でいきなり父親を失い、更にナッパ戦で大事な仲間たちが次々と殺される理不尽な状況を経験し、更にナメック星編では敵のベジータから味方側はクリリンまで失ったのです。
はっきり言ってトラウマにならない方がおかしいくらいに小さい頃から仲間の死を見せられ続け、そのためには相手を殺して命を奪う以外の方法はありませんでした

ここが孫悟空との大きな違いであり、孫悟空が相手の命を奪うことまでしなかったのは彼にとっての戦いが「武道を通じたコミュニケーション」だからであります。
だからよっぽどじゃない限り相手の命を奪わず、そこが同じサイヤ人でありながら元侵略者にして極悪人のベジータとの大きな違いにもなりました。
しかし悟空もベジータも同じサイヤ人であることに変わりはなく、ベクトルは違えど「永久に強さを求め続ける」という好戦的な性格は同じです。
だからこそ鳥山先生も物語の上で扱いやすいし動かしやすく、特にナメック星編以降を見ると大体は悟空かベジータのどちらかが物語を動かしているんですよね。

これに対して孫悟飯はセルゲームやブウ編のアルティメットがそうであるように、悟空とベジータの2人がどうにもならない時のピンチヒッターみたいな役割でした。
普段がおとなしい分本気で怒った相手には一切容赦せず、フリーザ相手に「死んじゃえ!」と言ったりセルに対しても「もっと苦しめてやらなきゃ」と言ったりしています。
普段はMっ気が強い悟飯ですが豹変するとサイコパスというか完全なドSのスイッチが入ってしまい、怒りに我を忘れてしまうほどの怖さを発揮するのです。
アルティメットに関してはそこから「甘さ」と「怒り」が消えた冷徹な状態ですが、とにかく悟飯を象徴するキーワードは「怒りによる戦闘力の増幅」でした。

だからそもそも悟飯は戦いに己の存在意義を見出しておらず、「自分が戦うしかないからやる」という極めて後ろ向きかつ受動的なキャラクターです。
セルゲームで活躍したのもあくまで悟空が鍛えてくれたからこそですし、そうでもなければ自分から強くなろうという戦意は極めて薄いといえるでしょう。
ましてや戦いにおける成功体験すらろくに積んでいない悟飯は唯一フィニッシャーとして活躍したセルゲームにおいてすら増長してしまい悟空を死に追いやってしまいます。
ベジータはこの時「俺はもう戦わん」と戦意喪失してしまいましたが、それは超えたい目標であるカカロットが死んで目標を見失ってしまったからです。

しかし、ベジータ以上に本当に戦意喪失したのは孫悟飯であり、せっかく大活躍したはずのセルゲームで悟飯は父親を失ってしまいました。
あの時悟空が言うようにトドメを間髪入れずに刺していれば父親を死なせず済んだのに、悟飯はその辺りを見誤っており、それは「スーパーヒーロー」でも克服されていません。
何せビーストに覚醒した瞬間にニヤリとほくそ笑んでいたのですから、地球の運命がかかった状況でよくもそんな余裕をかましていられるなと私は呆れました。
ですが、それもこれも全ては孫悟飯がそもそも戦いは好きではない平和好きで穏やかな性格というのがベースにあるのです。

この悟飯のキャラクターは後々「るろうに剣心」の緋村剣心や「ガンダムSEED」のキラ・ヤマトなどのような「不殺主義」のキャラクターの走りといえるでしょう。
長々と書きましたが、そういう経緯があるからこそ私はどうしてもZの劇場版二作でいけしゃあしゃあと我が物顔で戦いに身を投じる悟飯に堪え難い違和感を覚えました。
特に「銀河ギリギリ」では「昔お父さんも天下一武道会に出場してどんどん腕を磨いて言ったんだ、僕だって」なんてことを言っていたのには「はあ?」となります。
正に「お前が言うな」であり、自分の過失で父親を死なせる原因を作っておきながら父親のように天下一武道会で腕を磨くなんてどの口がそれをほざくのか?

悟飯がなぜセルゲーム後に7年間修行をサボったのかというと、平和が訪れて勉強に打ち込める環境になったからというだけではありません。
何よりも戦いにおいて最後までいい思いをしておらず、戦えば戦うほど辛い目に遭ってしまうのが嫌だったからこそ戦うことから身を引いたのではないでしょうか。
常に闘争を求め続ける悟空やベジータとは違い、悟飯は自分が戦う必要がなければ戦うキャラではなく、だから修行をサボったわけなのです。
そしてサボった結果どうなったかというのは魔人ブウ編や「神と神」「復活のF」でしっかりツケとして現れており、悟飯が戦う意思を取り戻したのは「超」に入ってからでした。

その辺をすっ飛ばして孫悟飯を安易な地球を守る正統派ヒーローとして描いてしまうのは個人的には受け入れがたく、それだったら仮面ライダーやスーパー戦隊と大差はないでしょう。
誤解しないで頂きたいのは「戦う悟飯を描くな」と言っているのではなく、「なぜ悟飯は自ら戦おうと思ったのか?」という部分をきちんと描いて欲しいということです。
Z時代の悟飯が主役だったこの劇場版二作はいかにも昔の作品らしく雑な作りであり、脚本家がそもそも悟飯の根底にあるものを理解していないとしか言えません。
悟飯はそもそもできる限り戦いを回避したいキャラクターである、という大前提を無視して戦いに身を投じるキャラにして欲しくないのに、それをやってしまったのですから。

じゃあ未来悟飯はどうなのかというと、あれも自分とトランクス以外に人造人間に戦える奴がいなかったからであり、しかしどれだけ修行しても人造人間には勝てませんでした。
そう、たとえ未来悟飯だろうと現代の孫悟飯だろうと戦いに対して消極的という根源があるからこそ成立しているキャラクターなのです。
だからこの二作の出来の悪さを知った後で「スーパーヒーロー」を見直すと、「スーパーヒーロー」はその辺りをないがしろにしていなかったのだなと思い直しました。


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