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幸村精市はなぜ越前・遠山・手塚の3人の天衣無縫ユーザーと戦う必要があったのか?

幸村精市という人物は「テニスを愛しテニスに愛されなかった男」と考察しましたが、彼の物語は「-10から1に戻る」ことにあったのかもしれないと思い始めました。
これはドイツ戦のS2で彼の後ろにイエス・キリストの像が浮かんでいるのを見て気づいたことであり、同時に私の中で「テニスの王子様」のタイトル回収になっていたのだとも感じたのです。
「テニスの王子様」は「悪人が悪人を倒す物語」というピカレスクロマンの風体をした「王子様が囚われの者たちを救済・解放する物語」というある種の童話のような構造にもなっています。
いわゆる「ONE PIECE」の持つ世界史のような横の歴史の流れとも、そして「NARUTO」のような日本史のように深く込み入った登場人物の業が深い作品でもありません。

強いて「テニスの王子様」に近い構造の作品を挙げるなら「ドラゴンボール」であり、「ドラゴンボール」は孫悟空が武道を通して悪人救済を行う物語であり、サイヤ人編までのベジータがその対象でした。
しかし、その「ドラゴンボール」において孫悟空が強さを極めた果てに辿り着いたのは帝王フリーザという故郷の星を滅ぼした大悪党であり、ベジータと違って一切の混じり気がない純粋悪です。
したがって倒す以外に方法はなく、孫悟空の「武道を通して和解」が初めて通用しない相手となったわけであり、孫悟空が地球人として積み上げてきた物語がここで1つのゴールに到達しました。
ここが同時に「ドラゴンボール」が紡いできた物語の限界であり、孫悟空は初めて「自分の手で救うことができない者」を発生させてしまう、そこから魔人ブウ編まで長きに渡る葛藤が起こるのです。

その「ドラゴンボール」が抱えていた「救済」という要素を「テニスの王子様」では「越前リョーマと手塚国光の2つの柱」によって再現しており、青学は各学校に打ち勝つことで救済しています。
そしてそれを突き詰めていった時、主人公の越前リョーマが最後に待ち受けていたのが神の子・幸村精市であるというのはまさしくこれ以上ないまでのテニスを通した救済になっていると感じたのです。
それが同時に「王子様」というタイトルがつけられている意味であり、今回は「越前リョーマと幸村精市」を中心に改めて彼が辿ってきた物語がどんなものであるを読み解いて行きましょう。

幸村が持つ「神の子=殉教者」と「眠り姫=お姫様」の二重性

まず、幸村精市という人物を読み解く上で大事なのは「二重性」であり、いわゆる二重人格とか性格の裏表とかではなく、物語の構造として彼には2つの側面があったのです。
1つが初登場の時に見せた「眠り姫=お姫様」、そしてもう1つが全国大会決勝で見せる「神の子=殉教者」であり、私の中で長らく全く違うこの2つの側面が結びつきませんでした。
どうしてあんなに儚げな少女漫画に出てきそうなビジュアルと雰囲気を纏った人が全国大会になると「みんな動きが悪すぎるよ!」と厳しく喝を入れる存在になったのでしょうか?
色々考察されてきましたが、これはキリスト教の旧約聖書のイエス・キリストだけでは読み解くことができず、「眠れる森の美女」という童話の文脈も加味することで初めて読み解けるものなのです。

ギラン・バレー症候群に酷似した難病を患っていた時の幸村は正に「眠り姫」であり、寝間着を着て病院でずっと寝込んでいる時の儚い雰囲気は本当に王者としての側面などカケラもありません。
真田が「お前抜きでも行けるいいチームだ」と優しく語りかけていたことから、手塚と大石とはまた違う真田と幸村の関係性のようなものもまた示されています。
この時の幸村は本当に薄幸の美少女のような雰囲気を纏っていて、テニスプレイヤーはもちろん立海大附属中テニス部部長としての凛とした姿勢は皆無です。
それだけに全国大会で部長として戻ってきた時に一喝した時はあの一瞬で読者の誰をも黙らせてしまうカリスマ性に恐れをなしたといってもいいのではないでしょうか。

手術が成功して全国大会に戻ってきた幸村精市はパワーSが納得できる程の凄まじいカリスマ部長であり、手塚や跡部様に勝るとも劣らない存在感を見せつけていました。
準決勝でも「さあ真田、トドメを!」というくらいにかつての面影はなく、もはや二重人格などという言葉では語れないくらいの勢いがあったのです。
ここまでの幸村は「動かない」からこそ余計にその威圧感が読者に伝わってくるわけであり、動かずとも幸村精市という人物は圧倒的強者の雰囲気を纏っています。
もっとも、当初の段階では名古屋星徳を勝たせるつもりだったようで、立海大附属が全国決勝の相手になるという構想自体は後付けであったといえるでしょう。

ただ、氷帝戦がそうであったように、読者は新しいチームがいきなり出てくること以上に既存のチームをより強く描いてくれる方が思い入れも深くなるし物語としてもわかりやすくなります。
ましてや全員フルメンバーだった氷帝とは違い、立海にはまだ幸村精市という部長が残っていましたから、青学VS立海の再戦は関東大会の時とはまた違った側面があるのです
だから、幸村があのような出で立ちのラスボスとして出てくる構想は最初は予定になかったものだと言えますが、だからこそ全国決勝S1があれだけ面白くなったのかもしれません。
幸村はその意味で連載の都合もあってか、当初と今とで全く別物のキャラになってしまったといえるわけで、これもまた許斐先生=テニスの神が成せる業でしょうか。

越前リョーマVS幸村精市は「眠れる森の美女」の現代版

全国大会決勝S1の越前リョーマと幸村精市の戦いはある意味で「サムライVS神の子」でありながら、同時に「王子様が眠れる姫を救う物語」という童話の文脈もあったと思います。
それこそ、難病の時の話が回想で出てきたり「ふざけるな!テニスを楽しくだと!」というところの下りから、あの時の幸村は「常勝」「立海三連覇」の柵に雁字搦めにされていたお姫様でした。
「王子VS神の子」というタイトルですが、同時にこのタイトルは「王子VS姫」と言っても過言ではなく、囚われのお姫様を越前リョーマという王子様が天衣無縫の極みに目覚めることで解放するのです。
こればかりは副部長の真田でも、ましてや青学の手塚と不二でも無理な話であり、テニスを楽しむ心という高みに到達できてもっとも強くなれる越前リョーマでなければなりませんでした

越前リョーマは全国大会準決勝で遠山金太郎との対決によって「楽しむテニス」を取り戻し始めており、天衣無縫の極みに目覚めるために父親と2人で軽井沢に行ったのです。
そこで記憶を喪失してライバルズとの打ち合いの中で「テニスプレイヤー」としての自分を再生させたこと、そして幸村との戦いの中でどんどん無我の境地の扉を開いて行ったこと。
これはそのまま童話の構造であり、茨という名のマジレステニスを行い越前リョーマのテニスを全て否定してくる幸村に対して越前が「じゃあこれは?」と諦めず突きつけます。
それを危険視した幸村は最終手段として五感剥奪を行いますが、それでも王子様の越前は諦めずに天衣無縫の極みに到達することで絡まってきたツタを全て撥ね退けることに成功しました。

最後のサムライドライブによって優勝を決めて握手をする時、幸村の顔には全くわだかまりがなく「常勝」というプレッシャーから解き放たれた顔をしていたのです。
アニメ版では「機会があったらまた戦おう。そうだな、今度は楽しむテニスで」と言っており、思えばここが幸村にもたらされた最初の救済であったのかもしれません。
表向きは確かに「王子様が神の子に挑む」という神話的構造を持っていましたが、それだけでは読み解けなかったのが「難病」の設定であり、これを「眠り姫」とすることで納得できます。
幸村は何が何でも王子様に助けられる必要があったわけであり、ある意味でいえば彼の物語は皮肉にも王子様に負けることによって一度勝利への呪縛から解放されたのです。

読者の予想としては手塚VS幸村や不二VS幸村、もしくは越前VS赤也を予想した人もいたそうですが、このように読み解いていけば幸村が復帰後最初に戦ったのが越前(と遠山)で良かったと思います
手塚はまだこの時幸村と同じで「青学の柱」という呪縛にかかった状態ですし、不二周助もまだ「勝ちへの執着」をようやく手にした段階ですから才能はあっても幸村を救済できません。
そして遠山は「テニスを楽しむ」ことはできてもまだ経験値も浅く強敵とぶつかる経験値が少ないため、とても越前リョーマの領域に到達することはできないのです。
だからこそ、越前リョーマこそが王子様として幸村精市という囚われのお姫様を救済・解放することによって幸村の真のテニスプレイヤーになるまでの道のりがここから出てきます。

受難の物語であるドイツ戦ダブルスと原点回帰のオーストラリア戦

「新テニスの王子様」はある意味幸村のために用意された物語と言っても過言ではなく、彼が本来の自分自身を取り戻していくための物語はここから始まります。
最初の真田との同士討ちでは「テニスを楽しもうと思っていたけれど、そんな余裕はない」と言っていますが、これがそもそもズレていることに幸村は気づいていません。
幸村を圧倒した越前リョーマが提唱する「楽しむテニス」とはあくまで「結果」としてであって、テニスを楽しむ心自体は「目的」にならないのですが、幸村はそこを履き違えていました。
「楽しもうとする」ことはそれ自体が「勝ちへの執着」とはまた別の呪縛となるわけであり、それは言うなら嫌なことを忘れようとするほど忘れられなくなる原理です。

そうして自分にとってのテニスとは何か?と向き合う機会がないまま、幸村はなんとなく勝ち組に残って何となく勝ち上がっていくのですが、大きな転機はドイツ戦でやってきます。
ここで徳川とダブルスを組んだ時に今度は幸村自身がそれまで数々の対戦相手にやっていた五感剥奪を自分が受けることになってしまい、とうとう自分の本心と向き合う時が来たのです。
越前リョーマが最初に救済した全国大会決勝では気付けなかった、否、気付こうともしなかった「心の弱さ」と幸村はこの時初めて向き合い、自分は「テニスを楽しめない」ことに気づきます。
この時彼は「天衣無縫の極み」に到達するルートを自ら放棄したわけですが、その代わりに「テニスをできる喜びは誰よりも強い」という結論に到達しました。

ここで幸村は一度自分が「神の子」でなくなるという経験を試合の中でもう一度したことで、向き合うことから逃げていたあの難病を患ったときの辛い自分を消化する機会を得たのです。
それまでずっと負けることが怖くて逃げていた幸村は自分のテニスと向き合うことがここで可能となったわけであり、これは同時に徳川と組んだからこそなのかなとおもいます。
ドイツのエキシビションマッチのデューク渡邊と不二周助、そして徳川カズヤと幸村精市という組み合わせは平等院が言うように「心の成長」に重きを置いていたようでした。
不二周助も幸村精市もこの時心の壁に苦しんでいたのをどう乗り越えるかが課題だったわけですが、幸村精市の場合は不二周助のそれよりももっと深刻で重たいものだったのです。

そしてもう1つ、今度は真田とダブルスを組んだことでもっと昔にあった「テニスの原点」と向き合うことになり、そもそも幸村がなぜこの時テニスを始めたのかまで遡って描かれます。
幸村と真田は立海大のテニス部部長と副部長である前に幼馴染のダブルスだったわけであり、ずっと長きに渡って信頼関係を構築して来たことがここで明らかとなるのです。
この時幸村はダブルスで追い込まれた時に真田から「諦めない心」を学び、そこで諦めないことで得た初勝利が今の幸村と真田のテニスの原点であり、それは越前リョーマが全国大会決勝S1で至ったテニスの原点でした。
リョーマは主人公であるが故に最速のスピードで辿り着きましたが、幸村精市は越前と違ってゆっくりじっくり時間をかけて自分のテニスを再構築していきます。

手塚国光と戦えたことで再生された本当の「神の子=殉教者」幸村精市

そして準決勝のドイツ戦S2、全ての下地が整った幸村はここで天衣無縫に目覚めた最強モードの手塚と戦う中で「神の子=殉教者」としての幸村精市が再生されていくのです。
それは決して全国大会決勝の時のような悍ましいものではなく、生き生きとテニスをする中で幸村が得ていったものであり、手塚国光と再度戦う中で幸村も自分のテニスを取り戻していきます。
旧作では実現しなかった手塚国光VS幸村精市ですが、これを幸村視点で読み解くと越前リョーマとの出会いと戦い、そしてその後の再生の物語があればこそなのかなと思うのです。
単なる青学の部長と立海の部長だから戦うというものでもなければ、人気キャラだから戦うわけでもない、きちんと物語のテーマに沿った必然として描かれた戦いでした。

手塚国光のことを「独覚者」と書きましたが、敷いて日本の神様に擬えるなら古事記に登場する「天照大神」に近いのが手塚国光ではないでしょうか、幸村にとっての「光」そのものですから。
ここではっきりしたことは越前リョーマと戦うことは「己の過ちに気付く」原点であり、そして手塚国光と戦うことはある種の「ゴール」であるということです。
越前リョーマと戦うことで影響を受けた人物は数多くいますが、最も影響が強かったのは幸村精市であり、最も根深い心の闇を図らずも突いてきたのが越前リョーマのテニスでした。
リョーマはテニスを通した「破壊と再生」を担う素戔嗚命であるともいえ、幸村はそれまでの偽りの強さをリョーマと戦う中で壊されていったのです。

しかし、越前はその全てを破壊したわけではないため幸村が自分のテニスを再構築していくためにはより細かいプロセスを経る必要がありました。
勝利の呪縛からの解放、「何のためにテニスをするのか?」に気付くこと、己の心の弱さを受け入れること、そしてその上でテニスを諦めずに愛していくこと、テニスの原点を思い出すこと。
全ての戦いが幸村にとっては必要なことだったわけであり、100回も挑んできた遠山からも幸村は「折れない心」を改めて学んでいたのではないでしょうか。
そうしてオーストラリア戦までで自分のテニスの原点を高めたからこそ幸村はドイツ戦で最高の状態の手塚国光と戦うことができたのだと言えます。

手塚もまた「青学の柱」に呪縛され、長いこと肘の弱さとかそういったものに向き合ってきた存在ですが、彼は大和部長と再開したことでその呪縛から解放されました。
実は幸村と違って手塚は九州で療養した時に千歳ミユキという女版越前リョーマみたいな存在と出会うことで自分のテニスの原点と向き合い、百錬自得を取り戻しています。
手塚が克服すべきは青学の柱の呪縛とフィジカルの弱さであり、こればかりは新テニで大和部長と出会いドイツに移籍しなければ無理なことだったのではないでしょうか。
そして同じように幸村もまた自分のテニスを取り戻すことでもう囚われの姫ではなく、まごうことなき神の子=殉教者としての自分を確立していったのです。

こう考えると幸村の救済はとんでもなく難しいことだったようで、許斐先生としてもかなり骨が折れるしんどい作業であったことは伺えます。
あとは天衣無縫への苦手意識を払拭すれば幸村もまだ伸びるのではないかと思います。

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