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準決勝S1の平等院VSボルクの異次元バトルに含まれている「新テニ」の重要な伏線回収と決勝戦への大事なメッセージ

世のテニプリファンが皆バレンタインデーキスで浮かれている一方で準決勝のドイツ戦を穴が開くほど読み返しながらその意味を考察している男・ヒュウガです。
さあ今回は準決勝ドイツ戦S1、平等院鳳凰VSユルゲン・バリーサヴィチ・ボルクについて考察しますが、おそらく新テニの「最強バトル」としてはこれ以上の試合はないでしょう。
旧作も含めて表現できる異次元テニスの規模感としては史上最大のバトルであり、決勝のスペイン戦はこれとはまた違った種類の能力バトルになるかと思われます。
この試合はトンデモな表現に眩惑されがちですが、実は新テニが紡ぎ上げてきた重要なテーゼや伏線回収を行っており、またそれが決勝戦への大事なメッセージにもなったのです。

まるで全国決勝S3の手塚と大石の信頼関係を彷彿させる平等院とデュークのやり取り、命を懸けて何度も蘇り現役最強プロの技を悉く破って新境地を切り開く平等院の打球。
そしてそれを受けて自分のテニスに欠けていたものを見直し手塚の技と自身の技を1人で共鳴させて最強の技を編み出すボルクの死闘はカロリーがとんでもなく高いです。
改めて試合の流れを俯瞰して振り返りつつ、平等院とボルクの戦いは何を日本代表のメンバーに、そして読者に伝えたかったのでしょうか?

準決勝S1は「輪廻転生」VS「永劫回帰」


宗教・思想がより作品の根底にある「新テニスの王子様」のドイツ戦は「天衣無縫VSアンチ天衣無縫」が物語の根幹にあり、そのテーマはD1で1つの終焉を迎えました。
その上で平等院VSボルクという日本最強の高校生とドイツ最強の高校生が織りなす異次元バトルの根底に描かれているものは「輪廻転生」VS「永劫回帰」=「仏教」VS「ニーチェ哲学」がテーマだと思われます。
どちらも一見似ているようでいて実態はまるで異なるものですが、これがどのように表現されていたかというと、「阿頼耶識」VS「無限の竜巻」という形で表現されていたのです。
大きな違いは「前世の業に影響されるか否か」であり、平等院の「滅びよ、そして蘇れ」は過去の業を全て抱えていますが、ボルクの勝利のテニス哲学にはそのような価値観は関係ありません。

ニーチェは「ツァラトゥストラはかく語りき」という著書この思想を打ち出していますが、最大の目的はキリスト教の世界観や概念といったものからの解放にありました。
世界それ自体には意味も目的もなくただそこにあるだけであり、ただあるがままの現実が永遠に無限回廊の中で繰り返されるだけであり、この永劫回帰の価値観の中では「神」も「仏」もいないのです。
キリスト教に限らず仏教もイスラム教もあらゆる宗教・思想の根拠となるものが「人間のエゴでしかない」と否定され、また奥底にあるルサンチマンや復讐・罪と罰の教義からも解放されます。
それをテニス哲学として体現したのがユルゲン・ボルクであり、だからあらゆる思想や価値観を削ぎ落として完成された純粋な「勝つためのテニス」は新テニにおいて「最強」の象徴です。

一方で平等院鳳凰がたどり着いた「滅びよ、そして蘇れ」として表現される「輪廻転生」は過去に経験してきた業から解放される為に何度も何度も修行して己の魂を磨き上げることに重きを置いています。
「六道輪廻」として畜生道・餓鬼道・地獄道・修羅道・人間道を繰り返し生きて魂のステージを高めて最終的には天道に行き着いて無限回廊からの脱出を目的とするものです。
その為にはオジイが提唱する「滅びよ、そして蘇れ」を幾度となく経験せねばならず、滅ぶ度に平等院が別人のごとく生まれ変わったのは魂のステージが滅んだことで高まるからでしょう。
だから平等院が滅びる度に何度でも無限の進化を重ねているのに対して、ボルクは逆に相手を無限回廊という名の渦巻きに巻き込み、対戦相手に同じ展開を見せつけて精神を折りに行きます。

これは生半可な精神と肉体ではクリアすることができず、ドイツのエキシビションのD1で徳川と幸村がボルクに一度も汗をかかせることなく負けたのもそれが理由でした。
「神の子」というキリスト教的価値観を持ち贖罪の最中である幸村と阿修羅の神道の片鱗しか開けておらず、肉体・精神共に発展途上の徳川ではボルクに太刀打ちできません。
永劫回帰の前には生半可な思想信条では太刀打ちできず、鋼どころかオリハルコンレベルの肉体と精神を持たなければボルクと対等に戦うことすらできないのです。
トンデモ展開のようでいて、実はとても冷静かつ論理的なキャラクターと物語の設計がなされており、平等院鳳凰しかボルクを打ち負かせる存在にはなり得ません

テニプリ史上最高のバトルというだけではなく、仏教という日本の伝統的価値観とドイツの現代的哲学のどちらが正しく強いのか?という思想戦でもあります。
もちろん現実問題としては「どちらも正しい」でいいと思いますが、あくまでも創作の世界ですから基準を明確にした上で納得できる筋運びが必要です。
許斐先生が輪廻転生と永劫回帰の差異をどこに見出したのかというと「無限回廊を肯定するか否定するか」というところに見出しており、ここが両者は似て非なるものです。
そしてそこにこそ平等院がボルクに打ち勝つことができるヒントがあり、またボルクが抱える「悪」の本質を浮き彫りにしました。

ボルクが抱える「悪」の本質は「停滞=自己保存」である


「輪廻転生」VS「永劫回帰」という根底の価値観の対比を見比べてみると、ボルクが抱えている「悪」の本質が「停滞=自己保存」にあることが浮き彫りになります。
「テニスの王子様」は一貫して「悪人がさらなる悪人を倒す物語」であり、その中でボルクは「敵」ではあっても比較的「悪」の度合いは少ない選手として描かれていました。
そんなボルクが平等院と対比される中で見えてきた本質が「停滞」ですが、実はテニスに限らずスポーツにおいて「停滞」は極めて危険な状態なのです。
脅かすものが居ないということは勝つことが常態化していることになり、それが長らくボルクのテニスに刺激を欠いた日々を送らせていたのではないでしょうか。

これはディフェンディングチャンピオンと呼ばれる立場の人たちが軒並み経験することであり、ある一定の場所で停滞してしまうとハングリー精神を失わせてしまいます。
ボルクがなぜ手塚と師弟関係を結んで手塚をあんなに鍛えているのかというと、ボルク自身が自分のプレイスタイルや立ち位置が孕む問題点を自覚していたからでしょう。
だから手塚を後継者として育てながら、いずれは自分を追い越すくらいの存在に成長してほしいと奥底で願って厳しく指導していたものと思われますし、手塚自身もそのつもりです。
ボルクが阿頼耶識を発動して自分を追い詰めてきた平等院を見て「こんな戦い方、プロには到底できない」と言われますが、ここで平等院は自身が見失っていたものに気づきました。

それこそが「リスクを賭けて格上の相手に必死に挑み勝利をもぎ取る」という勇猛果敢なチャレンジ精神であり、これが平等院とボルクの決定的な意識の差なのです。
プロとして安定感のあるテニスをし続けていくうちに段々とプロになるために努力をし、純粋にテニスを楽しんでいた頃の自分をボルクは思い出しました。
この「プロになると勝つための安全なテニスになってしまい、純粋に楽しめなくなる」というのは旧作で南次郎の口を通して語られた価値観をさらに深めたものです。
旧作の終盤で語られたことがこの準決勝S1の平等院とボルクの対決を通して具体的に表現され、さらにそこから先の境地を許斐先生は切り拓こうとしました。

「テニスの王子様」の世界において面白いのは実力こそプロ>アマとしながらも、「楽しむ心」においてはアマ>プロというパラダイムシフトを出しているのが面白いところです。
単純な力の差ではなく、もっと奥底にある「テニスを楽しむ心」を平等院は持ち合わせており、ボルクにはいつしかそれが失われてしまっていました。
だからこそボルクは自分を追い詰めた平等院に「プロの世界に上がってこい」と言ったのです、なぜならば平等院こそが自分の好敵手になり得るからです。
許斐先生は「守るのではなく攻めていきたい」と語っており、実力が等しく拮抗した試合では守りに入った瞬間に負けてしまいます。

だから、ラストで無限の竜巻として1人で能力共鳴を起こしたボルクが平等院によって倒されたのもまさにその「攻めきるかどうか」の差だったのではないでしょうか。
平等院は最後の最後まで一切守りに入ることなく竜巻きに、無限回廊に翻弄されながらも命を賭して己の道を切り開くことに成功しました。
それは同時にボルクの心の中にあった「悪」が砕け散り、彼もまた真のテニスプレイヤーになるための救済となりえたのです。

最後の「光る打球」は「破壊」かつ「希望」である


そんな2人の思想は最終的に平等院の「光る打球」によって突破されましたが、この「光る打球」がある伏線回収になっていることに皆様はお気づきでしょうか?
実は最後の打球は「破壊」でありながら同時に「希望」にもなっていることがこの1コマの高校生たちの嬉しそうな表情からわかると思います。
つまり、フランス戦で越前リョーマが打ってみせた「希望」としての「光る打球」を平等院は最後の最後に打ってみせたのです。
直接的にそう言及されているわけではないのでわかりにくいですが、それまで「光る打球」はとにかく「破壊」の象徴としてしか描かれていませんでした。

最初に徳川と越前を襲った時は単なる「破壊」しか生み出しませんでしたし、またアマデウスに対して亜久津仁が打った時もそれが試合の流れを変える突破口にはならなかったのです。
それを大きく覆してみせたのがフランス戦S3の越前リョーマであり、光る打球の溢れる破壊力を一点に凝縮することで未来を切り開く「希望」へと変えました。
更に一度カウンターでそれを食らっても越前リョーマは更なるカウンターでスーパースイートスポットの先を見極めることに成功し、それが日本代表にとっても大きな変化となったのです。
それまで義で世界を獲れないのではないかと思っていた徳川カズヤも、そして破壊をモットーにしてきた平等院鳳凰も越前リョーマのテニスに少なからず影響を受けたことでしょう。

最後の光る打球はボルクの無限の竜巻=永劫回帰を打破するための「破壊」の球であると同時に輪廻転生の最大の目的である「ループからの脱出」を果たした「希望」でもありました。
越前リョーマが切り開いてみせた可能性のその先を平等院が自らの命をかけて示したのであり、新テニのテーマ自体もあの段階で確かにまた1つの高みへと到達したのです。
単なるパワーインフレの頂上決戦というだけではなく、究極の思想戦の結末を読者に見せつけたわけであり、だからこそ今見直しても読み応えのある名勝負なのではないでしょうか。
だからこそ私はそんな平等院に日本を託された徳川カズヤと越前リョーマが決勝のスペイン戦でどのような回答を出してくれるかについ期待してしまうのです。

平等院ですら極限ギリギリのバトルをしたボルク以上の天才と噂されるメダノレと戦う徳川、そして究極の進化の否定である越前リョーガと戦う越前リョーマ。
この2人が平等院の「滅びよ、そして蘇れ」を受けてどのような新境地を切り開いてくれるか、どのようにして勝ってみせるかがもう私は楽しみでなりません。
元々「新テニ」自体この2人の物語として始まったところがありますし、遠山と鬼とは違って離れていても共に高みを目指す戦友の感じさえ醸し出しています。
遠山と鬼の物語は天衣無縫対決で1つの終焉を迎えたので、あとはこの2人の無限の進化に期待というところでしょうか、物凄い戦いになりそうです。

メッセージは「進化を止めるな」ではないか?


この準決勝S1で打ち出された決勝戦への最終的なメッセージは「進化を止めるな」ではないでしょうか、少なくとも平等院とボルクの戦いを見る限りではそう思えます。
もちろん進化したからといって簡単に勝てるわけでもありませんが、特に決勝トーナメントに入ってからは「進化」がキーワードになっているのではないでしょうか。
決勝戦前のメンバー決定戦の時も「日本代表は試合中に進化するのが強みである」と言っており、それに相応しいメンバーが出ることになったのかもしれません。
逆にいえば、ドイツ戦にしてもスペイン戦にしても大事なのは「進化し続けようという意思」であり、これがあるかどうかで本戦でも結果は大きく変わります。

仮面チビのセダと能力剥奪のリョーガをはじめとして、スペインチームは「停滞」から更に進んだ「進化の否定」というところに踏み込むと私は想像しています。
きっとボルクの無限の竜巻が可愛く思えるくらいえげつない精神攻撃・洗脳・催眠術といった術で進化の意思すら封じようとしてくることでしょう。
そんな風に追い込まれても進化し続けられるのか、それとも進化できずにやられてしまうのか……そんなところにも目を向けて終盤の展開を見ていきたいです。

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