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『秘密戦隊ゴレンジャー』という作品が持つ実写ならではの神話性

今回は私が『秘密戦隊ゴレンジャー』をなぜスーパー戦隊シリーズ第1作目として扱っているのかに関する個人的見解を述べることとする。
本題に入る前に、対外的にスーパー戦隊シリーズの根幹に関する「第1作目は何か?」に関して、今までどのようなスタンスで議論されてきたか?
これに関しては公式側から絶対的な解答が与えられることは昔も今も、そしてこれからもないであろうし、私が書く今回の記事も絶対的な正解を与えるものではない。
現にスーパー戦隊シリーズ専門家と呼んで差し支えない以下の人たちも、見解の差異はあれど「スーパー戦隊シリーズの1作目」はあくまでも便宜上のものという立脚点は同じだ。

そもそも『ゴレンジャー』の次作『ジャッカー』は、ジョーカーを司令とするトランプマークのサイボーグ4人チームとして作られており、『ゴレンジャー』から引き継いだファクターは、“公的秘密部隊所属のカラフル集団ヒーロー”という部分だけです。ビッグワンの登場も、あくまで低迷する番組への強化策であって、本来ならば最終回まで4人チームのままだったのです。ビッグワンだけトランプに関係ありませんね。現在スーパー戦隊シリーズにカウントされている作品の中で、唯一『ジャッカー』だけがサイボーグ戦士なのも、そもそもそういうカテゴライズは考えていなかった時代の作品だったからなんですね。

スーパー戦隊の遺跡発掘 ボウケンジャーに受け継がれし先人の業(わざ)

『デンジマン』で軌道に乗った後も、シリーズはいろいろな試みを続けていた。さまざまな要素が誕生し、あるものは引き継がれ、あるものは途絶え、またあるものは途絶えた後で復活した。そのようにして戦隊シリーズの歴史は紡がれていった。だが、すべての作品に欠かさず引き継がれるような要素は、そのほとんどすべてが『ゴレンジャー』によって開拓されたものであった。例外はたった一つ、『バトルフィーバー』から合流した「巨大ロボ戦」という要素だけである。こうなるとスーパー戦隊シリーズの第一作という名誉は、やはり『バトルフィーバー』よりは『ゴレンジャー』が担うのが妥当という感じはする。

詳論・スーパー戦隊シリーズの第一作は何か

『バトルフィーバーJ』を1作目と定義する鷹羽も『秘密戦隊ゴレンジャー』を1作目と定義するえのも「ゴレンジャーをシリーズ1作目とすることに対する違和感」に基づいて論じている。
無論私自身もその感覚がないわけではない、少なくとも『超力戦隊オーレンジャー』で「ゴレンジャー20周年」という文脈が持ち出されるまでは誰も意識することはなかった。
『高速戦隊ターボレンジャー』の1話目を見ればわかるように、80年代末期まで公式側は少なくとも『バトルフィーバーJ』を1作目としていることは明らかである。
それがなぜ「オーレンジャー」から変わり「タイムレンジャー」最終回後のスペシャルで再び「ゴレンジャー」「ジャッカー」の2作をシリーズに正式に含めることになったのか?

その辺りの疑問を曖昧にしたまま30作目の『轟轟戦隊ボウケンジャー』や35作目の『海賊戦隊ゴーカイジャー』では何食わぬ顔して「ゴレンジャー」が大御所のレジェンド扱いを受けている。
確かに「ゴレンジャー」がなかったら今の「〇〇戦隊××ジャー(マン)」といったネーミングも、統一性あるスーツもないし、「集団ヒーロー」が1つのあり方として定着することはなかっただろう。
今では「集団ヒーロー=スーパー戦隊シリーズ」という対外的なイメージが定着しているが、これもやはり『秘密戦隊ゴレンジャー』の作り上げた神話性があってのことだと思っている。
戦後日本のヒーローもののあり方が世界の黒澤の『椿三十郎』『用心棒』『七人の侍』で1つの革新が生まれ、テレビでも「ウルトラマン」「仮面ライダー」が1つの神話を生み出した。

そうなれば、ロボアニメの元祖と言われる『マジンガーZ』、合体変形ロボアニメの元祖である『ゲッターロボ』がそうであるように『秘密戦隊ゴレンジャー』にも何かしらの神話性があるのではないか?
話数で言えば「ゴレンジャー」よりも長い105話の『科学忍者隊ガッチャマン』よりも、後発の『秘密戦隊ゴレンジャー』の方がなぜ日本にそのイメージが浸透しているのかを実は誰も言語化できていない。
そこで今回は私が「ゴレンジャー」という全84話のフィルムが今何を私たちに見せるか?を根拠にして語ってみよう。

奇跡的なキャスティングとスタッフの妙


個性豊かな5人のキャスト

結論からいえば「ゴレンジャー」という作品のキャスティングとスタッフの妙が引き起こした神話性が今も尚画面の中に燦然と輝きを放ち続けているからだ。
何が素晴らしいといって、本作は決して『海城剛と愉快な仲間たち』でも『新命明と愉快な仲間たち』といった関係性にもなっていない。
誠直也・宮内洋・畠山麦・ペギー松山・伊藤幸雄という5人の役者の色気が拮抗し、5人並んだ時に美しい五角形が出来上がることにある。
そのことは上記で紹介した記事の中でえのがとても分かりやすい形で言語化しているので引用してみよう。

『ゴレンジャー』以前にも、アニメやマンガや特撮ヒーロー物において、グループヒーロー物というのはあった。だがそれらと比べて『ゴレンジャー』が決定的に違っていたのは、五人全員が主人公であって、「一人の主人公が四人の仲間とともに戦う物語」ではないことをこれ以上なく鮮明に打ち出していたことである。そしてそれは後続の作品に代々濃厚に受け継がれていった。そういう意味で、『バトルフィーバー』もまた戦隊シリーズから外すことはできないと言うべきであろう。

詳論・スーパー戦隊シリーズの第一作は何か

そう、「ゴレンジャー」以前と「ゴレンジャー」以後で決定的に違っていたのは5人全員に強烈な色気=存在感がそこにフィルム上に収められているか?ということにあった。
これが実はとても大事であり、「ゴレンジャー」が脚本や特撮の技術といった点では後発の洗練された作品群に劣ったとしても「不朽の名作」として輝きを放つ理由はここにある。
もちろん力関係による格差はあり、チームの柱として誠直也と宮内洋の存在は絶対的であるが、では他の3人がその2人の色気に食われているかといえば決してそんなことはない。
これこそが「ゴレンジャー」のキャスティングの妙であり、当時既に「仮面ライダーV3」などで売れっ子だったスター俳優・宮内洋に他の4人が食われていないのである。

特に任侠映画や刑事ドラマなどで有名な誠直也の存在は藤岡弘や佐々木剛とはまた違った色気があり、それがまたアカレンジャーとアオレンジャーの変身後の個性にもうまく繋がった。
あとはペギー松山も40話などでメイン回を貰えていたし、畠山麦も伊藤幸雄も同じくらいのメイン回を貰えるなど、誰が主役に来ても1つの話がきちんと作れるのである。
そしてそれはスタッフも同様で、平山亨と吉川進が交代しながら作品を作ったこともそうだし、また上原正三と曽田博久がこの作品で出会えたことも大きく影響しているだろう。
『ゲッターロボ』『ゲッターロボG』でチームヒーローを描いた上原正三に「ガッチャマン」でチームヒーローの作劇を掴んでいた曽田博久がタッグを組めたのも大きい。

スーツアクターもアカレンジャーの新堀氏をはじめきちんと変身前の役者とリンクするように充てがわれていたことも大きな成功に思える。
例えばこれが2作目といわれる「ジャッカー」だと、まず4人の役者に全く色気がなく没個性な上に、後半で宮内洋が入ると一気に食われてしまう
また同時代にやっていた『仮面ライダーストロンガー』に出ていた電波人間タックルもキャラ立ちが上手くいったとはいえず、ファンの記憶には残っていない。
それに「ウルトラマン」「ウルトラセブン」に出てくる防衛隊の人たちもメイン回はそれなりにあっても、ゴレンジャーのメンバーたち程の色気=存在感はないのである。

「ゴレンジャー」が現在に至るまで「集団ヒーローの元祖」というイメージが強いのはこうしたキャスティングとスタッフの出会いがもたらした神話性に基づくものだ。
単なる「レンジャーもののはしり」というだけで世間にそのイメージが定着したわけではないことは理解しておく必要がある。

"キレンジャーの錯誤"の真意

だいぶ前の記事でYouTuber・フィッシャーズのンダホと絡めて「キレンジャーの錯誤」について語ったことがあるが、「キレンジャーの錯誤」とは元々何なのか?
それは論理学の「詭弁」における「早まった一般化 (hasty generalization)」であり、一部の例だけを普遍の真理と見做してしまうことの危険性に他ならない。
この言葉を使い出したのはライトノベル作家にしてスーパー戦隊シリーズの大ファンである葛西伸哉氏が指摘していたのが始まりだといわれている。
確かに「ゴレンジャー」では1話から大岩大太がカレーを4枚食べるシーンがあるが、これ自体は物語とは何の関係もない要素だ。

カレーを頬張る大岩

カレー好きのデブというのはあくまでも役者・畠山麦が元々持っていた個性であり、当初想定されていた大岩のキャラにこんな設定はない。
また、だからといって上原正三がいわゆる「当て書き」のようなものをしたわけでもないだろう、後の井上敏樹や小林靖子のような役者重視の作風ではないのだから。
キレンジャーというキャラクターにとって重要なのは「ムードメーカー」という3枚目の要素であり、カレー好きという要素が面白かったわけではない。
そのことを示すように後半で出てきて戦死しただるま二郎演じる熊野大五郎はデブではあるが大岩程の色気がなく、うまくチームに馴染めなかった。

だから「イエロー=カレー好きのデブ」というのは完全に初代キレンジャーだけの特権なのだが、ではこのことに何の意味があったというのか?
個人的見解だが、この作品においてはそれまでの特撮ヒーローであまり使われたことのない「食べること」というテーゼが印象付けられたことである。
例えば「ウルトラマン」「仮面ライダー」という作品ではヒーローのハヤタ隊員や本郷猛・一文字隼人が食事している場面はほとんど見受けられない。
宇宙人や改造人間だから食べなくても生きていけるという解釈も可能だが、彼らが食事したシーンや食い意地が張ったキャラのイメージがないのはなぜか?

それは特撮作品やヒーローものにおいて食事シーンというものは大体において「弛緩」という役割を担い、緊張感を和らげる効果があるためだ。
キレンジャーが呑気にスナックゴンでカレーを食べるシーンを見て私が思ったのは「戦いに赴くというのに呑気なやつだ」という印象である。
仮面ライダーを演じる本郷・一文字が平和な日常で呑気食事していたら誰もが「おい悠長に食事やらすんな!」と突っ込んだかもしれない。
そう、キレンジャーの錯誤と言われる「カレー好き」は何かとストレスを抱えがちな戦いの世界において平和であるという印象を与える効果がある。

この畠山麦が持っていた「カレー食う3枚目」のイメージを継承したのが「ギャバン」「バトルフィーバー」「デンジマン」で大活躍する大葉健二である。
彼が演じたヒーローは皆あんぱん大好きという設定だが、これも大葉健二の趣味嗜好が反映されたものであり、畠山麦の系譜だといえるだろう。

ゴレンジャーストーム(ハリケーン)の滑稽さ


そしてこの「キレンジャーの錯誤」が与えた「弛緩」の役割はまた作品全体にも滑稽さとして1つの個性を形成するに至る。
動画をご覧いただければわかるが、ゴレンジャーストーム(ハリケーン)という必殺技は「かっこいい」というより「面白い」という印象があるだろう。
これもまたウルトラマンや仮面ライダーとの大きな違いだが、例えばウルトラマンの必殺技にスペシウム光線・八つ裂き光輪といった光線技がある。
これらは決して生身の地球人が放てるものではなく、M78星雲から来た宇宙人という設定とスーツアクター・古谷敏の身体能力がこれを可能にした。

そして仮面ライダーはウルトラマンとは逆にパンチ・キックといった肉体を駆使した徒手空拳を必殺技として使う場合がほとんどである。
仮面ライダーといえばライダーキックというイメージが強いのは初期の旧1号を演じた藤岡弘がそれを可能な役者だったからというのが大きい。
もちろんライダーキックやパンチ以外にも大車輪や同時攻撃のダブルライダーキックなどがあるが、中心はあくまでもキックである。
だから改造人間という設定のキャラが放つ必殺技としての説得力があったし、やはり「かっこいい」という印象が残るであろう。

これに対してゴレンジャーストーム・ハリケーンはスペシウム光線の異次元さやライダーキックのような渋い格好良さはない。
むしろわざわざ怪人を倒すのにサッカーやラグビーをモデルにスクラムを組んで倒すのだから、なんとも手間がかかる。
「モモ、ゴレンジャーストーム(ハリケーン)だ!」「OK!」の合図で始まるのだが、わざわざ1回ずつパスする必要がどこにあるのか?
しかも後半に至っては鶏がらスープや卵などもはやギャグとしか思えないものに変わるなど、毎回大爆笑の嵐であった。

そう、「ゴレンジャー」という作品がウルトラマンや仮面ライダーになかった3つ目の神話性はこの「滑稽さ」にある。
しかも本人たちはギャグだとは思っていなくて至って大真面目にやっているからこそ、余計に外から見る印象との落差が凄まじい。
特に曽田博久が執筆し牛靴仮面回はその代表格だが、キレンジャーの錯誤が作品全体に「コミカルさ」をもたらした。
スーパー戦隊がウルトラマンや仮面ライダーに比べて幼稚なガキ向けというイメージが強いのも初代のゴレンジャーストーム(ハリケーン)の滑稽さにある。

石ノ森章太郎先生が途中で「ごっこ遊び」に転じたという衝撃の事実


そしてこの作品が持つ最大の神話性は石ノ森先生をして「ごっこ遊び」に路線変更させたという衝撃の事実にあり、これがシリーズとしての自由闊達さにも繋がっている。
「「まんがよりもテレビでこそいきる」作品である」と述懐していたことからも、もはや作品自体が1つの生き物として変容したことを意味するのではないだろうか。
このことに関してはメインライターの上原正三も似たようなことを述べており、俳優のイメージと沖縄出身である自分の陽気な楽天性が最大に引き出されたからと述べていた。
実際42話のテムジン将軍との決戦で「シリアスな戦争」としてのゴレンジャーは終わりを迎え、43話以降は最終回までほぼほぼギャグ漫画じみたノリで進行していく。

このことを多くの人は嘆き悲しみ批判するかもしれないが、「ウルトラマン」「仮面ライダー」に匹敵する個性を「ゴレンジャー」が持ち得たのはむしろここにある。
「ウルトラマン」「仮面ライダー」は良くも悪くも作り手の思想性・メッセージ性が強く、作家が作品を抑制することで高尚な文芸作品のように見せようとしていた
「ウルトラマン」は最終回がそうであるように「科学特捜隊=地球人がウルトラマン=宇宙人からの精神的自立を果たす物語」であり、最終的にウルトラマンを異邦人として画面から追い出す。
M78星雲からやって来た存在は地球及び地球人を愛し守りこそすれ、最終的にゼットンという完全無欠の敵を前に敗れ去る他はないが、これは作り手が意図した通りの構想である。

一方「仮面ライダー」は漫画と実写版で全く進む道が異なり、石ノ森先生の漫画版は最終的に本郷が死に一文字に託す形になるが、実写版ではダブルライダーの共闘に落ち着く。
これは藤岡弘が大事故で長期入院したことで発生した予期せぬトラブルであったが、平山亨と伊上勝はそこを逆手に取りダブルライダーを代わる代わる活かす方法を選択した
結果として2年続くロングランにはなるが、これは原作者・石ノ森章太郎先生が意図したものとは違っており、だからこそ先生自身も「BLACK」などで度々原点回帰のリメイクをしている。
つまり「仮面ライダー」は「敵組織からの裏切り者である改造人間による同族殺し」という根幹の悲劇性だけ保てば、路線変更しても根幹が揺らがずに済む。

だが、『秘密戦隊ゴレンジャー』は上記して来たギャグ路線への変更に伴い、実写版も漫画版も作り手がもはやコントロールできない生き物になったのである。
最初からそのように描こうと思ったのではなく自然に描いていった結果初期とは全く異なるものになることを「窯変」というのだが、「ゴレンジャー」は正に「窯変」した作品だった。
路線変更でヒットした作品は数あれど、作品が作り手の思惑を超えた画面の運動を見せたという点において、本作以上の事例はまず存在しないであろう。
しかもそれでいて、例えば「ジャッカー」「オーレンジャー」のように作品自体が根幹から破綻したわけでもないこともまた奇跡だといえる。

『秘密戦隊ゴレンジャー』が第1作たる所以は「大らかさ」にある


ここまで論じて来られるとわかると思うが、私が『秘密戦隊ゴレンジャー』を第1作と定義している所以は作品自体が持つ「大らかさ」にある。
作り手の思惑や意思でコントロールできず、作品が現場で作られていく中で役者も演出家も脚本家もノリに乗った熱演によって当初とはまるで違うものになった。
それはとりもなおさず「ゴレンジャー」という作品がシリアスからギャグまで幅広く自由闊達に展開できるという「可能性」を開拓したことを意味する。
この大らかさがそのまま後続作品にも継承され、ある程度の型さえ守っていればその上でどんなことをやっても構わないという土壌が形成された。

「ゴレンジャー」という作品が様々な条件に恵まれた中で生み出した神話性は決して後のシリーズに「こうあるべし」という教義・思想性の大元になるものではない
「ウルトラマン」「仮面ライダー」のように第1作目で作られたフォーマットを絶対視しないし、物語のメッセージ性に作品が縛られることもないのである。
だからこそ受け手は「ゴレンジャー」を偉大なる大先輩と見ながらも、決してその感性が1作目の持つ神話性なるものに引きずられず自由に語ることができるのだ。
それがまた昭和・平成・令和という3つの年号を地続きで跨ぎながら今日までやって来られた真の理由になっているのではないかと私は思う。

1作目にして既に高度な文芸作品として完成を迎えた「ウルトラマン」や不本意な路線変更に振り回されてしまった「仮面ライダー」のどちらとも違うものになった「ゴレンジャー」。
集団ヒーロー物の雛型を完成させていながらも、同時に受け手にその思想性・メッセージを押し付けることなく自由に見ることを許してくれる本作は真に偉大である。

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